クロワッサンで朝食を

2012年、フランス・エストニア・ベルギー、イルマルラーグ監督


 「老い」をテーマに据えた、シリアスな作品である。85歳のジャンヌ・モローが、金持ちの我が儘かつ意地悪ばあさんを過剰なまでに演じている。いつまで経っても女を失わず、生々しいありように驚愕する。
 対する世話役の50代の家政婦は、美しく慎ましやかで大変真面目。
  噛み合わない2人を繋ぐのは、近所にあるカフェの経営者。彼はこの老婦人の永年の愛人で50代?カフェは彼女のプレゼントである。
 3人の共通点は異邦人(エストニア出身)、孤独 、パリが好きであること。


彼らの絡みが危うく、官能的な香りがちらほら。
 例を挙げると、表題のクロワッサンは、老婦人の朝食に欠かせないアイテムだ。美味しいパン屋で出来たてのを入手し、丁寧に入れた紅茶とともに食すことで、彼女の1日が始まる。言ってみれば老婦人の命の源泉である。
 美味しい朝食を味わえるかどうかで、採否が決まるのに、誰もそのことを家政婦に教えないので、老婦人はいらいらを募らせる。


老婦人はお洒落で気位が高く、まだ家政婦が必要とは思っていない。しかし、彼は彼女を毎日訪ねるのが苦痛なので、話し相手も兼ねた同郷出身の家政婦を雇ったのだ。
 彼が朝食の件を教えないのは、老婦人に無頓着な一面を表している。老婦人が家政婦に酷く当たるのも、愛人のそうした側面を感じたからだろう。


 老婦人はセクシャルな会話を好み、愛人とじゃれ合ったり、家政婦に嫉妬したり・・・。
決して多くを語らないが、行間から「老いと性」についての彼女の確執が伝わってくる。


 ドキッとするセリフが、現実の厳しさを垣間見せる。
 例えば彼は、老体に鞭を打って家政婦とともにカフェを訪れた老婦人に、「僕の生活は、君を中心に回ってはいない」と冷たく言い放つ。恩人でもあるのに、何という言い様!


 さらに彼は、「老婦人の死を待っている」と家政婦に言い、彼女の面倒を見るのがいやになったことを隠さない。
 一方、仕事を辞めて老母を看取ったばかりの家政婦も、「母の死を待っていた」と彼に本音を漏らす。
 赤の他人でなくても、老人の介護はつらいので、冷たい気持ちになってしまうのだろう。


  もう一つ、老婦人はかつて薬箱の中身を全て飲んで自殺を図ったことがあるので、家政婦は何時もその箱にカギをかけておくことになっていた。
 しかし、何度も気難しいジャンヌと衝突したあげく、辞めて帰郷することにした家政婦は、カギを付けたままにして出て行く。
これではまるで老婦人に「死ね」と言っているようなもの。ぞっとした。


 彼らはぐだぐだと、関係性を築いては壊し、を繰り返すばかり。 お互いに他者を必要としているのに、つまらないことに拘って他者を排除しようとする。

ラストシーンの解釈はさまざまだろう。
 多くの評者が「感動した」「温かさを感じた」と言っているが、 果たしてどうだろうか?
  この3人の孤独なパリの異邦人たちは、共通項をベースに利害の一致をみるのだろうか?
(★5つで満点)

嘆きのピエタ

2012年 韓国 キム・ギドク監督
(ネタバレナシ)
彼の真っ直ぐな眼差しが私をガツーンと打ちのめした。観終わってからもなかなか立てない。キム・ギドク監督は、訴えたいことを直球で観客に投げ、その反応を注視するのだ。

 
 「金で人を試す悪魔」と呼ばれる借金取り立て屋の主人公。天涯孤独の彼の前に突然、彼を捨てた母と名乗る女が現れる。
 一方的に母性愛を注ぐ女。思いがけず家族を得て、幼児帰りをする三十代の男。


 世界的に蔓延する「極端な拝金主義」への批判メッセージになっている。「金銭は全ての始まりと終わり」とのセリフがある。全てとは愛、名誉、暴力、怒り、憎悪、嫉妬、復讐、死・・・。金銭はそれらを支配し、人間を破滅へと導く。


タイトルの「ピエタ」のように、母(聖母マリア)の子(十字架から降ろされたキリスト)に対する慈悲深き愛がテーマである。金銭は愛をも支配するが、魂を救済するのは愛だけである。
子は母に愛を求め、母も子が愛しくて手放したくないので、ともに「胎内回帰」を願う。それは究極の至福であるため、全ての人にとって永遠の願いである。
 しかし、それは不可能性の象徴でもある。それを可能にするには、(双方の、あるいは片方の)「死」しかない。


おびただしい「死」が描かれる。人間だけではない。鶏、ウサギ、ウナギなどへの無残な殺戮。それらを「死」に繋げるのは、主人公だけではない。登場する女たちも、いろいろな形で暴力と関わっている。
 そう、人間は皆、他の生物を犠牲にして生きている。残忍性は誰にもあるのだ。


 おぞましいシーンなしで、信じられないほどの暴力が行使される。五感を揺さぶるのは、機械、声、音、表情、血、肉・・・。行間を読むことを迫られるため、怖さが増幅される。


 「ハレルヤは永遠なり」のテロップが二度出てくる。「ハレルヤ」とは「主をほめたたえよ」との意味。神の視点=俯瞰の構図も数回ある。
 神は死んではいないのだ。

 
 二転三転する先の読めない展開。伏線に次ぐ伏線。メタファーづくしのおもしろさ・・・。監督の技量満開の傑作である。
結末は観てのお楽しみ。


(ここからネタバレ。未見の人はご注意!!)


    ↓


  魂を奪いつくす最も残酷な復讐劇である。映像を読み解いてみよう。
 主人公の転倒=どんでん返し、
 女が自分で持ち込んだウナギを料理する=男性器を刻む。 
 若くて美しすぎる母=本物ではない。
 老母は自分の息子が主人公からされたように、女を突き落とそうとする=復讐
 セーター=主人公は女が亡き息子のために編んで着せたものを着る=置き換え可能性
 疑似家族のように墓穴の傍で横たわる、主人公と死んだ母&その息子=胎内回帰。
 その息子の自死に用いられた機械を主人公が再利用=贖罪
 ラストの引き回し=キリストの受難


シンプルだが、謎解きに胸が躍る。後味は決して良くはないが、神の視点に救われる思いだ。
(★5つで満点)

はじまりのみち

2013年 日本 原恵一監督

 伝記映画を一代記としてではなく、ある期間に集約して表現するという本作の手法は、スピルバーグ監督の近作『リンカーン』を想起させる。戦時中、失意のうちに帰郷した木下恵介監督の数日間のエピソードを丹念に描くことで、その人柄や思想、家庭、時代背景などを浮き彫りにする仕掛けである。


 しかし、シンプルさゆえに端正すぎる仕上がりとなり、物足りなさが残る。上映時間の2割以上を木下監督作品の引用が占めているのも、その一因である。


 木下監督は戦時中の自作『陸軍』のラストシークエンスで、「息子を喜んで戦地に送る母親などいない」という思いから、出征する息子を追いかける母親(田中絹代)の姿を延々と撮った。そこから伝わって来るのは母親の切々たる愛情である。
 これが当局から睨まれるとろとなり、次回作は中止となる。
憤懣やるかたない木下監督(加瀬亮)が、松竹に辞表を出し、故郷へ戻るところからドラマが始まる。


 戦況の悪化が進み、脳溢血で寝たきりの母たま(田中裕子)を50?以上離れた疎開先へ運ぶことになった。「バスよりもリヤカーの方が体への負担が少ない。1人でもやってみせる」と主張する恵介。それでは大変だろうと、兄と便利屋の3人で山道を歩むことにした。
 彼の母への愛情の強さを表現するシーンであるが、他の人を巻き添えにする危険性を孕む無謀な冒険である。手放しで称えることはできない。


 いくらバスよりも振動が少ないとはいえ、山道のことだ。病人にとってかなりきつい状況であることが想像できる。
 しかし、6月の日差しの強さや蒸し暑さ、急勾配の峠道などは、それほど苛酷に描かれてはいない。母は我慢強いのだろう、声一つ挙げず、一行は淡々と山中を歩んでいく。


 圧巻は突然の大雨だ。便利屋はゴム合羽で完全武装しているのに、母子はその用意もない。母は兼用日傘をしっかりと握っているので、上半身は何とかしのげるが、布団はござを掛けただけなのでずぶ濡れである。
 山道は天気が変わりやすいので、雨具は必須のはずだ。


 17時間後、ようやく宿に着いた。長旅の振動と冷え、不自由な姿勢などにより、母はかなり弱っているのでは?と心配したが、その必要はなかった。木下監督は、泥で汚れた母の顔を丁寧に拭き取り、そのまま母を背負って2階の客室へ入っていく。
 濡れた衣服も、長道中の間に乾いてしまったのだろうか?乱れた様子もない。延々と道中のシーンを撮った割には、疲労困憊した様子が感じられず、拍子抜けしてしまった。


 3日後、疎開先で母は突然起き上がり、不自由な手で「あなたの映画をまた観たい」と映画界に戻ることを勧める手紙を書く。さらに、声を振り絞って思いを伝える。
 そのことが監督業を続ける決め手の一つとなるのだが、それを強調するあまり、それまでの彼女とは全く異なるアクションを起し、饒舌になるのは不自然である。


 また、狂言回し役の便利屋を、『陸軍』の母親に感動したことを告げるために登場させるのはいいが、そこにたどり着くまでの台詞や行動が、いかにも笑いをとることを狙っているようで臭い。もっと自然体のほうがリアリティがあるのでは?


 『陸軍』の母とリヤカーの母を対比させ、延々と母と息子の愛情物語シーンを観せる。双方ともに別れがある。死を賭す戦場へ息子を送り出す母と、映画という暗闇の世界へ息子を送り出す母。
 トロッコが一行を疎開先へ運んでくれたトンネルに向かって、木下監督は1人で歩いて行くが、「トンネル」は、先が見えない映画界の現状&映画館のメタファーである。


 ラスト、トンネルを脱出した木下監督の戦後の作品群のラッシュが、音楽に載せて10分ほど繰り広げられる。いずれも本作と関連がある作品なので、映画通には堪らないと思うが、回顧上映会の感がある。


 彼があまりにもあっさりと業界に戻ってしまうので違和感があるうえに、ここまで省略&PRされると、不満が倍増する。
 とにかく綺麗すぎるのだ。まるで絵空事のようで、木下監督の努力や苦悩がなかなか伝わってこない。
 彼の作品のベースには、もっと多くの体験があるはずだ。監督復帰の「はじまりのみち」はあの山道だったとしても、 戦後どうだったのか、を多少とも入れて欲しかった。


 作品集の最後に出てくる「新・喜びも悲しみも幾年月」のラストだけ、実物のサウンドトラックを用いている。海上保安庁の船に乗った息子に手を振る母(大原麗子)が言う。「よかった、戦争に行くのじゃなくて・・・」。これが本作のメッセージだろう。
 このラッシュが観られたのは、数少ない収穫の1つである。
(★5つで満点) 

[ア行]愛さえあれば 

2012年 デンマーク/監督 スサンネ・ビア


 デンマークのシリアスドラマの鬼才スサンネ・ビアが、イタリア・ソレントを舞台に大人のためのラブコメディを作った。
 原題は『坊主のヘアドレッサー』。がん治療で頭髪が抜け、ヘアーウィッグが手放せない女性美容師が主役だけに、常に死の影がつきまとう辛口の内容だ。
 「素のままであること=坊主」と「表面を整えること=ヘアドレッサー」 という2つの矛盾を生きる主人公を意味するタイトルに、普遍的な人間のありようを託している。
 群像劇だが、それぞれの人物造型がしっかりしているので、混乱に陥ることはない。


登場人物のほとんどが、表面を取り繕って虚しく生きている。
 貞淑な妻&賢明な母、若い愛人にかまけている父、仕事一筋のやもめ、幸せな花嫁花婿、孝行息子、母思いの優しい息子、亡姉の子を育てるけなげな叔母・・・。
結婚式の準備のために集まったソレントの美しい景色の中で、それぞれが日頃演じている家庭内や社会での役割の虚構性が暴露され、思わぬ展開に・・・。


「嘘はもうたくさん。一生嘘はつけない」というある人物の突然の発言に、人々ははっと目覚めさせられる。ありのままに生きることがどんなに大切かを、主人公の2人が体現するラストシーンは感動的で、観客一人ひとりに解釈を委ねている。


レモンの樹液を吸い尽くす「カイガラムシ」は、登場人物のメタファーだ。この虫は、オスは無害だが無能、メスは有害だが自分だけで生殖できる抜群のパワーを持つ。
本作の男たちは自分中心で、パートナーである女性や自分の子どもへの配慮に欠けている。それに対して女たちは、総じて思慮にたけており、やさしさと自立性を持ち合わせている。女性監督ならではの視点だろう。


重要な役割を果たす「レモン」の花言葉は「忠実な愛」。果樹園の経営者である主人公が、オレンジにレモンを接ぎ木して、混在状態からレモンだけにしていく生育過程は、性別や国籍の異なる2人が愛を育んでいく様を表している。


父と息子の洞窟での対話、母と息子の水遊びなど、ホモセクシャルやマザコンの官能性の原点を想起させるシーンもあり、単なるラブコメではない深みのある演出が快い。

 しかし、難点もある。作為が目に付くのだ。主人公2人の出会いとなる事故、浮気現場の目撃、双方の家庭の情報不足、愛人の参入、息子の負傷など・・・。唐突過ぎて不自然だ。もう少し押さえた表現でも充分伝わるはずである。饒舌さを取り払った作品で、さらなる躍進を期待したい。
(★5つで満点)

ブルーノのしあわせガイド

観ている間中幸福感に浸れる数少ない作品。心が和み元気がもらえる。とかく殺伐とした現代にあって、束の間とはいえ、ほんわか気分になれるのもいいものだ。


 ある日突然、「貴男の息子を預かって」と告げられ、15歳のルカと同居するはめになった元高校教師の独身ゴーストライター&家庭教師・ブルーノ。ルカの母親は「父親であることは伏せておいて」と言い、赴任先のマリに旅立ってしまう。


戸惑いながらも友人のような親密な関係を深めていく2人。真実を知っているかどうかで、ちぐはぐな感情が起こるのは当然だが、普通の親子と比べて、微妙な距離がある分、大人の関係になれる。
 この辺りの描き方が実に爽やかで微笑ましく、実の親子であることをずっと明かさない方がいいのでは?とさえ思ってしまう。


ヤンチャで悪ぶってはいるが、シングルマザーにきちんと育てられたルカは、「何が大切か」を知っている聡明な少年だ。ブルーノが本気で補習を行おうとすると、落ちこぼれからの脱却をめざして努力する、といういじらしさも持ち合わせている。
 一方、ブルーノも気ままな自由業暮らしから実直な父親へと変貌することで、生き甲斐を見つけ、生活の乱れを正すようになる・・・。


不良少年とのつきあいがやめられず、マフィアがらみの事件に巻き込まれてしまったルカを救うために、彼と真剣に向き合うブルーノ。命を狙われているルカとともに隠れた公園の遊具の中で、母親との出会いを告白し、学校の教材であるホメロス叙事詩イーリアス」を解説する。


 ローマ建国の祖とされるトロイアの王族・アイネイアスは、トロイア戦争で敗れて落城するとき、父・アンキセスを背負い、息子アスカニウスの手を引いて亡命した。これはローマ的美徳「ピエタス」の体現である。
 「ピエタス」とは、神を敬い、親族愛を尊ぶという、ローマ固有の道徳を意味するラテン語だ。父と息子の絆を深めるにはもってこいの内容である。古典はルカが苦手としていた学課だが、以後、興味を持って取り組むきっかけとなる心憎い演出だ。
 

 原題は「シャッラ」という、数年前にローマで流行った若者言葉。「なんとかなるさ」といった意味がある。
 実の親子であることが分かった後も、「シャッラ」をモットーに、自然体で成長する2人は観ていて楽しい。
 さらに、「シャッラ」の精神で、今よりもちょっとだけ深く自分を見つめたり、人と向き合ったりすることができれば、人生を変えることが出来る、ということも教えてくれる。


 至る所で笑いを誘い、うるっと来るシーンもある。コメディタッチのホームドラマだが、イタリアの教育問題をシリアスに描き、ローマの若者の今日的状況をつぶさに見せてもくれる。


主役の父子がまさにはまり役。演技の確かさはもちろんだが、実に魅力的なのだ。ともにイケメンで品が良く、色気もある。観ていて飽きない素敵さ・・・。
 惜しむらくは、ややご都合主義的な展開であること。伏線はあるが、少し無理があるかも?
しかし、極上のエンタテイメントであることは間違いない。多くの人に共感をもたらす佳作である。
(★5つで満点)

ホーリー・モーターズ

 「映画はモーション(動作)がエモーション(感動)を作ってきた」と語るレオス・カラックスが、13年ぶりに怪作を撮った。タイトルバックから随所に映画へのオマージュがちりばめられている。


 のっけから、世界最初の映画といわれるリュミエール兄弟のシネマトグラフィの上映以前に、生理学者&写真家のマレーが撮った連続写真(動く少年)が提示される。
カラックスは、そこに原初的な「行為の美しさ」を見出していた。


 誰かの人生の一コマを演じることを生業とする主人公オスカーが、ボスに「君が仕事を続ける原動力は?」と問われて返す言葉が「行為の美しさ」である。
前述のように、監督は「映画に於いては、人間や動物の動きこそが重要であり、それは美しくなければならない」と言っている。オスカーはカラックスの分身なのだ。


 「行為の美しさ」とは、日々ひたすら死に向かって疾走する人間の
刻々と過ぎ去る生の一瞬の輝きである。加えて、その瞬間をきちんと捉えて表現できるのは、アナログ撮影システムである、という意味も込められている。


 オスカーは、「役者」という職業を持つ「生身」の人間である。
 彼が毎日乗る白いストレッチ・リムジンは、「壊れゆく映画システム」と「霊柩車」、2つの意味を持つメタファーである。


 オスカーは、1日に9つの役のアポをとり、11のエピソードを演じる。役と役とは分断されてはいるが、無意識のうちに前の役を引きずっており、切り替えにはかなりのエネルギーを必要とする。さらに身体的なきつさも加わって疲労が累積していく・・・。
 生身のオスカーも、自分が自分として生きることに疲れており、長い人生を歩むには、常に新たな自分を創出する必要がある。そこで、上書きしてはころころと変容するのだ。


 モノクロ映画、チャップリンコクトーゴダール、自身の作品等々からのおびただしい引用のエピソードの殆どが、運動の静止、収斂、死といった、アクションとは正反対のイメージで帰結する。
 これらは、もはやアナログ時代のアクション(行為)やモーター(キャメラ)を必要としない、無機質なデジタル時代に突入した映画界に絶望したカラックスのしがない抵抗のオマージュである。


 そうは言いつつも、彼は新たな生きる原動力を模索しなければならない。
 「死と再生」 が本作のテーマなのだ。
 ラストのエピソードで、オスカーは、チンパンジーが待つ団地のホームへ帰宅するサラリーマンを演じる。人間と動物の境界を越えた庶民、というイメージは、斬新な世界の夜明けを想起させる。

 カラックスは、本作でもデジタル機器を駆使している。彼にとって最新のテクノロジーを活用することは必然である。
 本作から、そうしたものに取り込まれてしまうことへの危惧を抱きつつ、新たな挑戦をしなければならないカラックスの、映画愛の深さと映画界に対する決意表明を感じとることができる。
(★5つで満点)

ヒステリア 

女性用ヴァイブレーターの開発秘話がベース。ちょっと引いてしまいそうな内容だが、女性監督ならではのフェミニズムを絡めた清々しい仕上がりになっている。


 イギリスのヴィクトリア朝(1837〜1901)末期が舞台だ。産業革命がもたらした経済の発展が成熟に達したイギリス帝国の絶頂期である。


 産業革命による労働者搾取と植民地支配による領民搾取により、人々の生活水準は向上したが、貧富差はますます拡大した。富める者はより裕福になり、貧しい者はより苛酷な生活を強いられた。


現代と同様、繁栄と腐敗が表裏一体となった社会。それらを隠蔽するため、階層を問わず礼儀や道徳を重んじる偽善的な風潮が生まれた。同時に、劣悪な生活環境から売春や児童労働といった悲惨な現象が噴出した。
 この矛盾した二面性がヴィクトリア朝の特徴。文学作品ではオスカー・ワイルドの『サロメ』、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』などがある。


 自由で闊達な人間らしい生活とは正反対の「二重規範(社会的規範&男女差別規範)」を強いられた、ロンドンの女性たちが登場する。
 彼女たちは家父長制社会のもと、参政権はおろか平等な教育も受けられず、自在に職業に就くこともできず、財産の自己所有権もないため、生きるためには結婚して家事に専念する主婦になるしか術がなかった。
 加えて禁欲的な空気が支配するなか、彼女たちは、表面では性的なものがまったく存在しないかのようにふるまっていた・・・。


 そうした制約が原因で意欲減退、異常性欲、不感症、うつ病といった「ヒステリー」症状が女性たちの間で蔓延。その治療法として、ベテラン婦人科医・ダリンブルの特殊なマッサージ法が評判を呼んでいた。
「患者を救いたい」との意気に燃えた青年医師・グランビルがその仕事を手伝うが、あまりの盛況ぶりに腱鞘炎になり、解雇されてしまう。


 彼は閑職中、発明家の親友が構想中の「電動埃払い器」に眼をつけ、友人とともに「電動マッサージ治療器」の開発に取り組む・・・。


 新発明の治療器がみごとに成功し、職場に復帰した彼は前にも増して超繁盛。女性たちの元気になる姿を眼にして得意満面だったが・・・。


 根本的な原因を究明しようとせず、一過性の治療に励む父ダリンブルとその弟子グランビルを嫌う長女シャーロット。彼女は父に抵抗して女性の自立支援をし、貧者のためのシェルターを運営する先進的な社会主義者だ。
  一方、父の言う通りに行動し、閉鎖的な人生を歩みつつある貞淑な次女エミリー。
  物語はこの姉妹を対比させつつ、グランビルとの恋の行方をコメディタッチで展開する。
 姉妹はそれぞれが自分の人生を生きることに目覚め、意外な結末を迎える。 


  タイトルの「ヒステリア」は子宮を意味するギリシア語。紀元前5〜紀元前4世紀ごろの古代ギリシャ人は、子宮の病のことをそう呼んでいた。
 「医学の父」といわれるヒポクラテスは当時、その症状について正確に記載している。また、同時代のプラトンも、「長い間子どもを産まないと子宮は苦しんで五体を動きまわるため、あらゆる病の原因となる」と述べている(『ティマイオス』)。


 「ヒステリー」は神経症の一種で、疲労感、集中力不足、焦燥感、記憶力低下などの精神症状と、不眠、頭痛、食欲不振、うつなどの身体症状からなる。
 フロイトがパリでヒステリーについて指導を受けたジャン・マルタンシャルコー(1825〜1893)が男のヒステリーを指摘するまで、女性特有の病とされてきた。


本作は、開発ストーリーもフェミニズムも恋愛も、深く掘り下げていないので少々物足りない。初回の実験で元売春婦を起用したのは、職業的蔑視があり問題だ。さらに即大成功では余りにも軽過ぎる。
 フェミニズムについては、長女の活動をもっと多面的にとりあげ、同時代の女性の状況をじっくりと描いて欲しかった。
 しかし、あの時代にそんな実話があったとは・・・。眼からウロコの女性賛歌が快い。気軽に観て欲しい。
(★5つで満点)