マンダレイ

 最も好きな映画作家の一人、ラース・フォン・トリアーの、「アメリカ」3部作の2作目。
 フェミニズムの視点で批評してみよう。

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 マンダレイという、アメリカ・アラバマ州の大農園にたどり着いたグレース。
 そこでは、70年前に廃止されたはずの奴隷制度が未だに生きていた。
 彼女は懸命にそれを廃止しようとするが、その縛りはなぜか黒人たちが望んで維持されていたのだった。


 「アメリカでは、まだ黒人を解放する準備ができていないから」と奴隷たち。
 黒人だけでなく、女性や移民などすべてのマイノリティに対する根強い差別が、今も世界中で息づいている。
 だから、民主主義なんてクソ食らえ。いっそのこと、奴隷制や反民主主義のほうがいいのでは、と監督は皮肉タラタラだ。


 グレースは、前作「ドッグ・ヴィル」で、女性である自分に大きな屈辱を与えた共同体(家父長制社会)を、父の権力を行使して殺戮、壊滅させた。


 時が経ち、現代における奴隷制度(家父長制社会)と遭遇した彼女は、再び父の権力を利用し、女性にとって理想的とされる民主的な共同体(女性と男性の平等な関係)に改革しようと立ち上がる。


 グレースの到着(父の法)と引き換えに、圧倒的な力を持っていた農園主のママが死ぬ(母の死)。
 残されたのは、新しい法律に適応できないことを恐れたママと奴隷頭の男性が、共同で作り上げた「ママの法律=秘密の本 」だった。
 この本は、死者が潜在的に存在し続ける空間(幽霊の再来=反復)であり、作者の意図を超えて多様な解釈を生み出す書き言葉(幽霊の到来)で構成されている。


 そこには、奴隷たちの生活や労働についての細かい規則と、階層による役割分担、性格・行動パターンによる7つのグループ分けなどが記されていた。
 これは支配マニュアルであり、屈辱の素、抑圧の処方箋であるが、奴隷(女性=妻)たちは毎日、マニュアル通りに 行動すればよく、不満はすべて主人(男性=夫)のせいにすることができるというメリットがあった。
 当然ながら、その楽チンさと引き換えに、自由や個性を発揮する余地はなく、単調な日々が続くし、生きがいもない。


 グレースの改革はなかなかはかどらなかった。
 役割分担が明確な、非民主的制度(家父長制)に慣れきった奴隷(女性)たち。
 抑圧のはけ口は、子供への虐待に繋がる。
 黒人女性が自分の子供たちを鞭打つシーンが痛ましい。
 さらに、彼ら(女性たち)は、長年虐げられてきたので、たとえ自由を得たとしても、それを謳歌する方法を知らない。
 自分の身体に「負のイメージ」を浸みこませてしまっているマイノリティ(女性)の悲劇・・・。

 
 果たしてマンダレイで、民主的な共同体は成立するのだろうか。
 民主主義は、多数決により一つに集約される。そこには共存はなく、勝者と敗者を生むヒエラルキーの構造があるのみだ。
 グレースの試みは、「公式時刻」さえも表決で決められる。
 この決定により、彼女は最後に致命的なしっぺ返しを受けることになる。
 裏切り者の処刑も表決で決定される。
 グレースは被害者の復讐を避けるため、処刑人になることを引き受ける。


 共同体の中で、「マンシ(アフリカの王侯貴族の末裔)」ということで一目置かれていた金庫番ティモシーは、実は汚いドロボーだった。
 彼に性的な欲望を抱いていたグレースは、強姦に等しいセックスをさせられて失望する。
 改革とは裏腹に、家父長制社会(男尊女卑)の象徴である「マンシ」の男性に魅せられたグレース。
 この何たるパラドックス
 当然、彼女は、ここでもしっぺ返しを受ける。 復讐を嫌っていたのに、表決により、彼を盗みの罪で鞭打ちの刑に処せざるを得なくなる。


 さらに、何と彼は「マンシ」ではなく、「マンシー(アフリカの王侯貴族の奴隷の末裔 )」だったことが判明する。彼女が以前、追い払ったカードのペテン師がタネ明かをして、約束通り彼女の窮地を救ってくれたのだ。


 これは、予想外だった。
 ペテン師は彼女に、何事もプログラム通りにはいかないことを教えてくれたのだ。
 (綿花の種まきの時期のズレ、砂嵐による被害、思いがけない収穫なども、こうした教えの例え)


 このように、記号の差異などいい加減なもの。黒人のジャックとジムの区別、顔を黒塗りされた白人と黒人の違いなどは、はっきりとは分らないのだ。
 「ママの法律」でグループ分けされていた、「1.誇り高き黒人」と「7.おべっか黒人」の差異も、グレースの願望が「1」と「7」を読み違えていただけだった。
 記号は、解釈する側の考え方一つでどうにでもなるのだ。


 社会学者の宮台真司は、自身のブログ で、次のように述べている。
 (米国では、)[「ルールを踏めば何でもあり」的開放性故に「ルールを踏まぬ輩」への排除的ヒステリーが帰結され易く、「宗教的善意への信頼」故に米国流宗教的善
意と両立しないと見做された対象への排除的ヒステリーが帰結され易い皮肉がある ]と。


 これは、グレースの希求するアメリカ的な民主主義の考え方とも共通する。
 彼女は「新しいルール」と「宗教的善意」を以って、マンダレイ=古い体質の共同体(家父長制社会)を改革しようとしたが、住人たち(マイノリティ=女性)は、ぬるま湯からなかなか出られない。


 ゆえに、彼女は、改革できないと判断。父の手下もいないし、「第二のママ」にはなりたくない、と逃走を図る。
 しかし、自身が決めた民主主義のルールによる「公式時刻」と、外の世界の「公式時刻のズレ、父の迎え(権力)を当てにした傲慢さにより、放浪の旅を余儀なくされる。


 一人でゲートの外に放り出されたグレース(女性=マイノリティ)は、何処へ向かうのだろうか。

  「新しいマンダレイとは何か。いつか教えてほしい」との手紙を残す父。
 しかし、「再び、話し合うことはないだろう」と結ぶ。


 凶暴な妻を持つ黒人バードは、絶望して自殺する。
 「アメリカはまだ、黒人を受け入れる準備が出来ていない。自分を責めるしかない」とのテロップ・・・。


  自分の内面を見ずに、外の世界ばかり見て、旧体質(家父長制)を改革しようとしても所詮無理だ。新しいことを始めるには、準備が必要なのだ。
 まず、自分自身を変革すること。そして、父の権力に頼らないこと 。


 「100年後も変わらないだろう」との言葉を残して、映画は終わる。


 女性(マイノリティ)差別 は、100年前も、今も、変わっていない。
 私たち女性一人ひとりが「旧体質(家父長制)の中にどっぷり浸かっている」ことを自覚し、反省しなければ、100年後も変わらないだろう。
 

 ラース・フォン・トリアーが、次作の完結編でどんな答えを出すのか、楽しみである。
(★5つで満点)