トーク・トゥー・ハー

ピナ・バウシュの激しいダンスに始まり、ゆるやかなテンポのダンスで終わる。これは、物語のテーマである”天国と地獄の中間にあるこの世は悲哀に満ちているが、人間はそれを運命として捉え、受容して生きていかなければならない。人間にできる唯一のことは、ただ黙って優しい眼差しで見守ることだけだ”ということを表現している。

 
 母の看護を15年間も続けた看護師のベニグノは、文字通り母子密着の至福の時を独占し続け、大人になれないまま時を過ごしてきた。
 母の死後、彼は初めて女性に恋をする。それも、バレエ・ダンサーという女性的な職業に就いているアリシアを。


 幸か不幸か彼女は植物人間となり、彼は看護を引き受けることを申し出る。生身の女性と付き合えるほど大人になっていない彼。これで彼女を独占できるため、通常の人間では考えられないほどの幸福感を味わう。彼は彼女を生身の人間のように扱い、毎日語りかけ続ける。彼はこうすることで初めて、他者とのコミュニケーションが可能になったのだ。


 人は自己愛の幻想の中で生きている。だから、相手が人形や動物であっても、話しかけたり世話をすることで孤独を癒すことができる。物語を共有してくれる他者が居さえすれば、それは事実として経験され、記憶されて、自分が生きた証として残るのだから。


 そうした他者による認知を受けないものは、いくら自分が経験したことでも”なかったこと”になり、記憶の奥底にしまいこんで忘れられてしまう。
 ベニグノにとって、好きな彼女がいつかは蘇り結婚できるかもしれない、という奇跡を信じつつ看護を続けることは、自分の存在を確認する作業でもあり、永遠に続いて欲しい幸せな時間だった。


 一方、物書きのマルコは大人である。現実を受け入れ、植物人間の彼女に無駄な干渉をせず、温かい眼差しで見守り、涙を流すだけ。
 彼は二度も蛇退治をして、女性を助けている。蛇は男根であり、男性性の隠喩だ。彼はそうしたものを振り回さない、男とか女といった垣根を超えた思想を持つ男性である。だからこそ、女性的とはいえない職業に就いている闘牛士のリディアを愛したのだ。


 記号というものはそれ自体では成立できず、必ず他の記号との対立や差異によって成立する。つまり、絶えずその位置をずらしながら保持されるものだ。
 この場合、2人の女性は”恋人”」として記号化されているが、このように死んだも同然のままの状態では、その位置づけを保つことができなくなってしまう。


 そこで変化が訪れる。マルコの恋人リディアは、安らかな自然死を迎える。
 ベニグノは、より深く彼女との一体感を求めるが故に、彼女の好きなサイレント映画の中の人物のように、アリシアの体内に侵入し、我を失ってしまう。
 彼女を妊娠させることによって彼女を覚醒させはしたが、彼自身はその痕跡である男の子の死産ととともに、破滅へ向かうことになる。


 ピナ・バウシュのダンスは、「死から生が浮かび上がる。大地から沸き上がる精霊。広島に捧げる死者のための音楽」というテロップとともに、アリシアとベニグノの運命を暗示する。


 2組のカップルの生と死。女と男が1人ずつ、組み合わせを替えて再生する。 ”闘争する女”と”語る男”は死に、”サイレント映画の好きな芸術家の女”と”語らない物書きの男”は生き残る。


 2人の男性の対比は、まさに言葉は毒にも薬にもなることを表わしている。語られた言葉はその場限りで命を失うが、書かれた言葉は記録され生き残っていくのだから。
 また、2人の女性については、”芸術は人間を昇華させるが、闘争は人類を滅亡に導く”というメッセージだ。


 いずれにしても、”女性性”は生き残り、”男性性 ”は消滅する。ここにはフェミニズムの視点が感じられる。


 生き残った男は死んだ男の部屋を借り、その部屋から、蘇った女を見続ける。記号が置き替わっただけで、物語は再び始まるのである。
トーク・トゥー・ハー★★★★★(★5つで満点)