空中庭園

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 冒頭、古代世界の七不思議の一つ「バビロンの空中庭園」を描いた蛍光灯の傘が、家族の食卓の真上に映し出される。この庭園を作ったのは、偉大にして悪女(堤防を築き、夫を毒殺したといわれる)のセミラミス女王という説がある。本作の主人公の絵里子は、現代のセミラミス女王である。


 母に愛されなかったという幼い日のトラウマから逃れられない絵里子。高校時代には不登校を繰り返し、母を殺そうとしたことさえある。そのため、結婚するまで、すべてのエネルギーを母との確執を乗り越えるために費やした。
 できるだけ早く実家を離れ、理想の家庭を築こう・・・。絵里子は計画的に女を磨き、男を誘惑し、結婚し、団地の分譲マンションを入手し、女の子と男の子を1人ずつ産んだ。


 空中庭園は神話の中の理想郷である。清らかな水が流れ、花と緑にあふれ、小鳥がさえずる・・・。まるで母の胎内のように心がやすらぐ場所。
 母との一体化を求める絵里子は、彼女がイニシャティブを取って人工的に構築した「胎内=団地の分譲マンション」で、家族との一体化を希求する。


 一方で、空中庭園は、西洋男根ロゴス(言葉)中心主義の隠喩でもある。旧約聖書では、「バビロン」は、「バベルの塔」を始めとして、富と権力を濫用した人間の虚栄心の象徴として描かれている。
 絵里子は、女王のように「秘密とタブーのない家庭、鍵を持つのは母親だけ」というルールを家族に強要する。


 絵里子は、この「胎内にして権力行使の場 」という矛盾性の中で、必死に生きている。ルールを守ることにこだわり、仮面を着けて自分と家族のウソを隠蔽する生活は当然、精神にアンバランスを来たす。
ぐるぐる回る不安定なカメラ。彼女の庭園に紐で吊るされた赤い籠と、息子コウの描くCGの赤い紐で吊るされた団地の分譲マンションが揺れ動く。これらは絵里子の情緒不安を表している。
 

 娘のマナは、もう一人の絵里子であり、ラブホテル「野猿」(京橋家と同じ壁紙・花瓶を使用)はもう一つの京橋家だ。
 「秘密のない家庭=窓のないラブホテルのよう」と、夫貴史のもう一人の愛人にしてコウの家庭教師でもあるミーナは言い、登場人物のほとんどがこのホテルに出入りする。


 マナは、絵里子と同じように男に対して主体的だ。マナ自身の出生決定現場となった「野猿」へ三回も行く。そこで、お気に入りのクマのぬいぐるみを引き出しに入れたり出したり・・・。
 このクマは母の代替物である。頻繁に移動させるのは、母との葛藤を表現している。絵里子の母さと子も、この場所でクマを取り出して「もう人間はいらないよね」と話しかける。


 このホテルで、バビロンの刺青をした男テヅカにエリコと名乗るマナ。彼から、「ウソばかりついているとセミラミス女王にはなれない。バビロンはとっくに滅んだ。お前の家はない。もうやり直せない」と忠告を受ける。


 絵里子は、再生を図れるのだろうか?
 テヅカの言葉は、「空中庭園幻想を崩すことができれば 、再生は可能である」ことを示唆している。
 マナはすでにそのことに気付いている。ボーイフレンドである農家の森崎は、田園の中に突然できた空中庭園=団地を批判しているが、マナは彼を「地に足が着いていてカッコイイ」と評価しているのだ。


 絵里子の幻想(思い込み)を壊すには、他者が必要である。家族はもちろん、京橋家の外側にいる人たち=さと子、絵里子の兄、ミーナ、夫貴史の愛人飯塚、同僚のサッチン・・・。


 コウは、「自分の敵は思い込みの激しいところ。この団地もここに住めばみんな幸せになるという思い込みで成立している。ママも思い込んでると本当のものが見えないよ」
 「ものが創り出すイメージはまやかしで、人が本当に欲しいのは人・・・」
と言い、絵里子の思い込みの源を断ち切ろうとする。


 さと子は、「本当に大切なことは墓の中まで持っていくもの」
 「記憶はいい方に書き換えて、それを見ながら死ぬの」
 「やり直して、また繰り返して・・・」
 と、絵里子に、その都度思い込みを書き換えながら、生きていくことを教える。


 ミーナは、京橋家のメモリアルデーの場で、「これって幼稚園の学芸会にそっくり」
 「ここに来る日はだいたいラブホテルに行きます。その時一緒にいる人は誰でしょう?」 「私は家族なんて絶対作らない・・・」
 と、一歩引いたところから絵里子の思い込みを壊そうとする。


 兄は、「お前は俺と違って母さんと仲がいい」
 「母さんは口を開けばお前の話ばかり」
 と、絵里子の思い込みとは正反対の思い方をしている。


 サッチンは、「ウソがばれたら誰もいなくなっちゃうよ」と、うそつきの絵里子の弱点をつく。


 嵐の中、テラスに出た絵里子。雷鳴の亀裂が、それまでの彼女の思い込みに攪乱と変容をもたらす。この亀裂は他者たちの贈り物である。
 西洋男根ロゴス中心主義は、女を(男根の)欠如とみなし、母殺しによって成立する。
 絵里子は、他者たちのくれた亀裂により、”母は自分の分身でありつつも、見知らぬ他者である”ことを悟る。つまり、支配を求める男性性の位置を捨て、他者との差異を認める女性性にめざめたのだ。


 血の雨は、胎内から生まれ出るときに浴びる歓びの雨だ。絵里子は、ムンクの絵のように顔を歪めて泣き叫ぶ。言葉ではない。言葉にならない叫び。 本物の人間の叫び。
吊るされた赤い籠の紐が切れて、絵里子の思い込みの空中庭園は闇の中へ・・・。


 絵里子は再生した。
 テヅカの言葉通り、血にまみれ泣き叫びながら生まれ変わったのだ。


 目玉焼き、円形の食卓・食器・マット、観覧車、回転ベッド、回りながら大きく揺れるカメラ・・・・。これらは円環を意味し、「繰り返し、やり直し」ながら人生を歩むことの重要性を示している。


 「野猿」、クマのぬいぐるみ、人間を無視するワンニャンワールドの犬たち・・・。物言わぬ動物は、人間に対するアイロニーでもある。飯塚は貴史に「あんたのように恥を感じない人間は、動物と変わらない」という。


 さまざまな隠喩と換喩・反復が散りばめられている本作は、”言葉は唯一絶対の意味を持つものではない 。言葉の意味のズレ(差異)の中にこそ、再生の力がある”ことをテーマにしている。
 言葉の中に亀裂を入れては、書き換え、再生し、反復する・・・。
人間はそのようにして存在しているのである。

空中庭園★★★★★(★5つで満点)