単騎千里を走る

 母の喪失を巡る、父と息子の確執〜修復の物語。日中それぞれ1組の父と息子のドラマをダブらせて、人とのコミュニケーションという普遍的なテーマを描いている 。


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(ネタバレ注意!!)
 タイトルの「単騎、千里を走る」は、「三国志」の仮面劇の演目。後に蜀帝となる劉備の義弟・関羽が、劉備の妻子とともに敵の曹操に捕まるが、劉備への仁義を守り、ただ一人で劉備の妻子を助けて脱出、劉備のもとへ帰ってくるという”家族の再生”の話だ。
 たった1人で中国に渡り、心の中で”家族の再生”を果たす本作の主人公と重ね合わせている。


 キーワードが3つある。
 1つ目は” 仮面”。
 母を死に至らしめた父を許せない息子たちと、息子との関係を修復したいと願う父たち。日本人の父・剛一は 、中国人の父・ジャーミンが息子に会えないことを嘆き、仮面を取り外して大泣きするのを見て、「中国人は自分の感情を人前でもさらけ出せる。自分も素直に感情を出せれば息子とここまでこじれなかったのに・・」と後悔する。
仮面は、深層の感情を見せない剛一の隠喩であり、その下の素顔は、感情を豊かに表現することによりコミュニケーションが開けていくジャーミンを表している。
 また、仮面は、父の権力と同一化した記号でもある。その内側には削除された母の痕跡があり、それを覆い隠すツールとなっている。この記号化は、「仮面劇の演者は、素顔が見えないので誰でもいい。いくらでも代わりがいる」という村人のセリフと同通し、演者の個性は無視される。
 さらに、仮面は、他者と自分との境界にも位置している。


 2つ目は”翻訳”。
この役目を果たすために、健一の妻、日本語の達者な女性ガイド、日本語の下手な男性通訳の3人が登場する。彼らが伝える言葉 は、内容が少しずつズレていく。
「健一が会いたいと言っている」と、剛一に伝えた健一の妻の言葉は、事実とは違っていた。剛一は「中国に来たことは健一には内緒に」と言ったのに、彼女は健一に告げてしまう。以前、健一がジャーミンに約束した「単騎、千里を走る」のビデオ撮影も、言葉の上の付き合いだったことが分ってくる。
 剛一は言葉のすべてが真実ではないことを知る。


 女性ガイドは契約が終わると上司の命令で引き上げてしまう。後を引き受けた男性通訳は日本語がおぼつかない。時々女性ガイドに携帯電話で通訳を頼むが、時間がかかり、状況はなかなか進展しない。言葉が通じないので、孤立し、焦る剛一。
 彼は初めて、健一も異国では孤独だっただろう、と思いを馳せる。


 翻訳は、言葉の境界を侵犯する行為である。言葉の絶対性の転覆を謀ること。つまり、言葉を反復しながら、置き換えていく行為である。
 ”オリジナルは純粋”という伝統を覆すこの行為は、言葉だけではなく、人が生き延びるために必要な力となり、世界に新しさをもたらす。
また、翻訳は、オリジナルの権威を奪い、新しいイメージを登場させるので、言葉というよりは演技である。言ってみれば、隠蔽された母の死体が、仮面を着けて、生きている人々に混じって踊り回る仮面劇のようなものといえる。


 3つ目は”感謝”。
村人の助けがないと一歩も動けない剛一が、最初に覚えた中国語は感謝(謝)。
 村人が剛一との出会いに感謝して開く、一村総出の宴。
 健一は父の中国行きに感謝の言葉を伝える。
 ジャーミンは、剛一が息子のヤンヤンを連れて来ようとしたことに感謝して、仮面劇を演じる・・・。
 感謝は、コミュニケーションを開く最大のカギとなるのだ。
  

 手間のかかる翻訳や中国特有の文化を体験する中で、ゆっくりとしか動かない時間が、徐々に剛一の心を解放していく。
 ヤンヤンを追いかけ、彼とともに険しい山中を迷う剛一。大人の決めたことには従わなければならない伝統と、父を許せない本音との間で迷うヤンヤンは、健一を追いかけて、何処へ向かおうとしているのか分らない剛一そのものである。二人が来た道を再度通るのは、この反復を意味している。


 剛一は、ヤンヤンと心を通わせることができ、笛をプレゼントする。彼を抱きしめた時、健一との関係に重ね合わせていた。このように心から優しく接したことが一度でもあっただろうか、と反省する。
 仮面を着けていた剛一は、自己と他者の境界をさまよった末に、新しい力を得て脱皮する。つまり、素顔をさらして、他者とコミュニケートする歓びを知るのだ。


 最初の目的だった、健一に観せるために仮面劇のビデオ撮影をする旅は、途中でヤンヤンをジャーミンに会わせるための旅ともなる。しかし、ヤンヤンは村へ戻り、さらに健一が死んで、撮影は不要に。そこで、ヤンヤンの様子をジャーミンに伝えるためだけの旅となり、最後には、剛一自身が生きぬくためのパワー源として撮影が必要になる。
 目的は偶然性により、次々に置き換えられ、オリジナルは消滅するのだ。


 雲南が好きで、北西部と南東部を旅したことがある。本作の舞台となった北西部の麗江では、迷路のような明・清時代の町並みの奥深くまで歩いた。歴史を感じさせる風格が魅力で、町の人々も親切だった。
 さらに、南東部のベトナム国境に近い奥地では、映画の登場人物たちのように 、日本人と接するのは初めてのよう。素朴で人情の厚い村人たちに招かれてご馳走になったりした。
 本作では、善人ばかりが登場するが、実際に田舎ではあの通りである。
(★5つで満点)