マッチポイント
ウデイ・アレンが鮮やかに変身した。
前半はありがちな恋愛もの、後半は畳みかけるようなサスペンス。
ロンドンを舞台にしたオペラ仕立ての悲劇を、しゃれた辛口コメディに仕上げている。
多用される文学やオペラの引用は、登場人物の運命を暗示し、謎解きの楽しみもある。
冒頭、テニスのマッチポイントで、ネットに当たったボールの行方を追うショット・・・・・・。
「この世はすべてが“運”。目的も計画もない」と、主人公のクリス。
本作のテーマはここにある。
ウデイ・アレンはこう言いたいのだ。
「“運”は予測不可能で、突然到来するもの。
このボールが勝敗を決めるような単純さで、その人の運不運が確定されるのではない。 “運”にはつねに、両立不可能なものに対峙しなければならない、という苦難が、亡霊のようにとり憑いている」と・・・・・・。
貧しいアイルランド人のクリスは、「幸運」にもイギリスの上流社会に食い込むことに成功した。
しかし、居心地がいいはずはなく、身分相応のアメリカ女性ノラと不倫している。
クリスは、“運”よりも知性や計算、熟慮などを重視する彼らに反発し、亀裂を入れる存在なのだ(クリス=キリスト、ノラ=「人形の家」の主人公。彼らはともに時代の革命児だった)。
だが、クリスは財産や出世への欲望も捨てがたく、ノラへの愛欲との板挟みでなかなか決断ができない。
同じように観客も、クリスの行動に対して感情移入はできないが、他人の苦しみはのぞいて見たい、と相矛盾するニーズのどちらをも手放さない。
さまざまな伏線が散りばめられているものの、先が読めそうで読めない展開である。
登場人物たちはお互いに誤解しあい、観る側もミスリードの連続・・・・・・。
両者ともに、ウデイ・アレンに翻弄され、宙吊りにされる。
高所恐怖症の主人公の家庭と職場が、足が地に着かない高いビルにあるのは、この感覚を表している。
引用の例を挙げてみよう。
物語が始まって間もなくクリスが読んでいた、ドフトエススキーの「罪と罰」。この小説の主人公ラスコーリニコフの運命は、まさにクリスと重なる・・・・・・。
同じように最初の方で、クリスとノラは、オペラ「椿姫」を鑑賞する。イタリア語の原題「ラ・トラビアタ」には、「道を踏み外した女」という意味がある・・・・・。
音楽のひとつオペラ「マクベス」は、クリスの予言〜野心〜疑惑〜陰謀〜錯乱へと追い込まれていく状況を暗示している。とくに死者の影に怯え破滅していくマクベスの運命は意味深だ・・・・・・。
“運”を重んじるクリスと“努力”の人である妻のクロエ。この二人の関係はボタンの掛け違いが多い。
結婚前にクリスはクロエに悲劇のCDを贈る。クリスの愛読書のストリンドベリと、最後の方で彼が言葉を引用するソフォクレスは、ともに悲劇の作者である・・・・・・。
だが、この夫婦が、悲劇的な結末を迎えるのかどうかは分らない。
なぜなら、古代ギリシアの愛の物語『ダフニスとクロエ』では、戦争、誘拐などのさまざまな試練がふりかかりるが、二人は恋を成就するからだ。
ところで、本作には、成り上がり者の強欲と上流社会の傲慢、軍事大国への批判がしっかりと織り込まれている。
さらに、「正義」についても、「逮捕されて罪を受けるのが当然、それが正義だ」という考え方とは正反対の立場から描かれている。
「それで罪をつぐなえるのなら簡単だ」とクリスは言う。
ウデイ・アレン、は次のように主張しているのである。
「正義とは不可能なものの経験である。
可能なものの経験ならば責任は“有限”だ。
不可能なものの経験である時こそ、単なる規則の適用ではない“無限”の責任が生じるのだ」と・・・…。
映画の初めの方の、マッチポイントのショット=「“運”のパラドックス」は、正義のそれと通じている。
鏡や影の用法はヒチコック風だ。オペラのアリアとともに陰鬱な雰囲気を醸し出している。
監督がウデイ・アレンであることを忘れてしまうほど、斬新な魅力にあふれた傑作だ。
(★5つで満点)