ゆれる

 父と息子、それぞれの兄弟の確執の物語。人間の根源に関わる゛他者との関わり”を深く掘り下げた必見の名作である。
 
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 言うまでもなく、人類最初の殺人事件は、旧約聖書の「アダムとイブ」の息子たち「カインとアベル」によって引き起こされた。
 父の仕事だった定住の農耕を継いだ兄カインと、より自由な遊牧の仕事に従事する弟アベル。兄は、弟の方が神に気に入られていることに嫉妬して、感情の赴くままに殺害する。しかし、神はカインを赦し、誰からも傷つけられないようにと印を授けたため、彼は罪意識を抱えながら生き延びて、人類に文明と戦争をもたらす・・・・・・。
 人間にはこうした不条理を受け入れることが、神から科せられているのだ。


 本作の主人公である兄の稔は 、田舎で父の仕事のガソリンスタンドを継いでいる。もう1人の主人公、弟の猛は、東京でフリーランスのカメラマンとして活躍中だ。
 2人の父も弟の身でありながら家業を継ぎ、兄である叔父は東京で弁護士をしている。


 ここには田舎/東京、負け組/勝ち組の図式があり、カインとアベルのような嫉妬の構造が浮かび上がる。
 さらに、稔と猛の母の不在(死)と、ガソリンスタンド従業員の智恵子の存在は、エディプスの三角構造となり、家族の崩壊に拍車をかける。


 猛は数年前に母を亡くし、気難しい父とも疎遠になっている。唯一肉親と思えるのは、兄の稔だけだ。東京で華やかな仕事をしているが、それを支えているのは、”故郷には信頼できる兄 がいる”という思いである。
 言ってみれば、稔は猛にとって”母”のような存在だ。猛が故郷に帰っって来た夜、兄が愛しているらしい智恵子と寝たのも、兄を取られたくない、という気持の裏返しといえよう。


 智恵子の墜落死事件の後、目撃者の猛は、逮捕された兄を必死にかばおうとする。素直に兄の「実直で、いやなことから逃げない人生」を評価し、優しい慈愛に満ちた兄と離れたくなかったからである。


 しかし、稔は豹変する。
 彼は、人生を諦め、弟への嫉妬を押し殺して生きてきた偽善者だったことが、面会時に明らかになる。
 兄を母の如く慕う猛に、「俺をかばうのは、人殺しの弟になるのがいやだからだろう。俺が知っているお前は、最初から人を疑って、最後まで信じない奴だ」と、猛の心のよりどころを根底から揺さぶる。


 兄の心を取り戻したい猛は、いつかは分ってくれるだろうと願い、彼をかばうのをやめて、殺人者の家族になることを選択する。
 つまり、カイン(稔)によってアベル(猛)は、(精神的に))殺されたのである。カイン(稔)は感情の赴くままに本音を吐き、アベル(猛)を打ちのめすことに成功したのだ。”母”なる存在 を失わせることで、猛と対等になったのである。


 そのことは、もう1人のアベルである叔父を殺すことにもなる。叔父は弁護活動で稔を救済できなかったため、カインである父に負けたのだ。
 こうなると、もはや兄弟の付き合いは 抹殺されるだろう。


 稔はすべを失ったように見えるが、抑圧から開放されて、新しい道が開かれる。
 猛は何も失っていないようでいて、渇望した愛は閉ざされ、罪意識にさいなまれる。
 立場が逆転したかのように見えるが、 猛は、この不条理を受け入れた時、人間としてさらなる成長をするだろう。


 この2人の関係の修復の鍵は、「写真」である。
 カメラマンの猛は、智恵子の墜落現場をファインダー越しに見ている。レンズに映ったシーンは、殺人だったのか、過失だったのか・・・・・・。
 母の形見は、8ミリ映写機と撮影済みのフィルムだ。稔の出所の日、実家に戻った猛は、幼い時、兄弟で吊り橋を渡った思い出のフィルムを見つける。果たして映してみると・・・・・・。


 写真は”現代のイコン”である。2度と戻らない世界を写し取り、見たイメージを通して、そのイメージの彼方にある世界に、見る人を没入させる力がある 。
 猛が見た2つの写真は、イメージの力によって繋がり、彼を危機から救ってくれた。
 稔への信頼の気持ちは、幼い日の記憶として猛の心の中に刻み込まれていたのである。


 幼い日の稔は、吊り橋の上で恐怖に震えながらも、猛に手をしっかりとさしのべてくれていた。だから、あの日もきっと智恵子に手をさしのべたに違いない。 智恵子が最後に、稔の手にひっかき傷を付けたのは、稔が手をさしのべた証なのだ・・・・・・、と。(稔の側から見れば、殺意は全く無かったとはいえないだろうから、神がカインに付けた許しの刻印でもある)。


 「腐った板を踏み外したのは僕の方だ」と気づいた猛は、純粋な気持ちで兄を迎えに刑務所に行く。
 だが、車の故障で 間に合わなかった。


 やっとバス停で、バスを停める稔を見つけるが、兄は弟に微笑みかけるだけで、画面をバスがよぎる・・・・・・。


 この微笑みをどう解釈するか。
 稔は、ホンネを吐露し贖罪も果たしたのだから、自分の人生をやっと取り戻せた喜びを実感したのだ。「いい人 」と言われ続け、それを演じてきた虚構の人生との決別に歓喜しているのである。
 猛も、兄を信じきっていた自分が間違っていなかったことを再確認した。
 ”母”なる存在との融合〜断念を経た今、真の精神的自立に目覚めつつある猛。
 2人が関係性を修復するのでは、とも思われるいい出会いだったのではないだろうか。


 大きく揺れる吊り橋の下には深い川 が横たわっている。しかし、この橋を渡り切れば向こう岸に着く。吊り橋は”神の試練”である。
 足を踏み外すこともあれば、恐怖で渡りきれないこともある。
 猛と千恵子との性的な関係を知った翌日、稔が2人を誘って渓谷に行くのは、まさにそれだ。車のライトの点滅、千恵子の顔が映った窓、トンネルなどが、その後の3人の運命を暗示している。


 私たちは、本作から「他者の呼びかけに応え、手をさしのべることで、ともにあちら側にたどり着くことができる」ということを学ぶだろう。しかし、手をさしのべることのいかに難しいことか・・・・・・。

(★5つで満点)