天然コケッコー

 映画仲間の話では大変評判がいいので、最終日に駆けつけた。だが、期待が大きすぎて「キサラギ」と同様肩すかしを食らった。


このゆるさがたまらない、という人が多い。
 確かに、始原や結論めいたものを提示しないあいまいなつくりは、山下敦弘監督らしさ全開ではあるが、”美しい自然を背景にした「ありがちな話 」を、美男美女が演じる”という印象が強く、既成作品の枠を超えた強烈な魅力を感じることが出来なかった。


 それは、主人公のそよが都会的な美少女であり、他の少女たちの素朴さと溶け合っていないことに起因する。”田舎対東京”という図式を強調しないための戦略だったのかも知れないが、イケメンの大沢とともに浮いてしまって、彼女の天然ぶりがわざとらしく感じられるのだ。


とはいうものの、田舎を肯定する姿勢は、作品を通して貫かれており、”天然礼賛”の趣旨は伝わってくる。


 たとえば、男女関係。”そよ・大沢・しげちゃん”の関係は、現在(田舎)の”そよの母・そよの父・大沢の母”、過去(東京)の”大沢の母・そよの父 ・大沢の父”と、三重構造の三角関係になっている。


 そよは、田舎者の社会人であるしげちゃんより、都会からきたちょい悪同級生の大沢に惹かれる。そよと大沢は、田舎の高校に進学するが、大沢の今の成績では、オチこぼれも時間の問題だああああろう。そう、二人の恋は一過性のものなのだ。
 そよの父は、東京時代の恋人である同郷の大沢の母が、離婚して田舎に戻ってきたことで揺れ動いている。 しかし、そよの弟が母に、父の浮気の可能性を指摘しても、母は意に介さない。田舎でがんばっている自分に自信があるし、寛大な性格なのだろう。


 また、1つのバレンタインチョコが、大沢の母〜そよの父〜そよの弟〜大沢へと回帰することも、愛の不確実性を表現しており、都会が田舎を凌駕するという図式にはなっていない。


修学旅行時の都会での戸惑い、男女関係、進学・・・。節目節目に暗転があり、主人公の心の変化と成長が表現されるが、すべて田舎優先の思想が見受けられる。


結局、冒頭近くのシーンにある、大沢が選んだ海への近道が、物語のテーマを示していると思われる。
普段誰も通らない廃道。その果てには朽ちかけた橋があり、そこは大沢の母の友人が自死したらしい場所だ。大沢は母に頼まれて、道端の花を1本手向ける。散らかった茶椀や枯れた花が、故人のかつての恋愛関係の虚しさを連想させる。
 安全な道を通っていたはずのそよは、遠くから幽霊を見て倒れ、大沢に助けられて恋は進展する。
その道を、往きは大沢一人で通るが、帰りはそよと二人で歩く。大沢の手向けた花は、すでに倒れている・・・。

 
 つまり、ワクワクしながら海へと辿る道にも、安全だが遠回りになるコースと、過去の亡霊が出そうな危険な近道のコースがある。大沢とそよは、二人だけの世界を求めて、他の子どもたちとは別の冒険を試みたのだ。

 
恋愛は安定とは対極にある感情である。本作の結末は一見、ハッピーエンドであるが、二人は、危険な道へと一歩踏み出したかのようにも感じられる。
 なぜなら、山下敦弘監督は、始まりも終わりも無い、観客に解釈を委ねる作家だからだ。
(★5つで満点)