ココ・シャネル

 ココは「恋多き女」といわれているが、少女時代に母を亡くし、頼るべき父にも棄てられて孤児になったため 、男性に父親的な存在を求めたのである。
 その一方で、そうしたトラウマから、男性を心から信頼することが出来ず、結果的に棄てられる、ということを繰り返した。

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 老いたココを演じるのはシャーリー・マクレーン。彼女の回想シーンでは、2人の男性と恋に陥るが、2人ともココを裏切り、良家の女性と結婚する。


最初の彼とは、庇護されるだけの不確かな関係。彼のシャトウで同棲を続けるが、彼には他にも女性がいるため居心地はよくない。
 そもそも彼との出逢いからしてウソっぽいのだ。聡明なココは、彼が不誠実な男であることは分かっていたはずなのに、金に目が眩んだのだろう。
 しかし、お針子をしているだけでは叶えられない優雅な上流階級の暮らしの経験は、その後の彼女の人生を開花させる原動力となった。
 もともとセンスの良い彼女は、愛人生活の場にあっても、暇をもてあますことなく、帽子作りに励み、サロンの人々の評判を取っっていた。


 恋人の不実にもめげず、自身が磨き上げた才能を最大限活用するココ。彼の親友だった2人目の恋人から資金を借用し、自立をめざして帽子店を開く。
 その彼は、母に棄てられた過去を持つ似たもの同士だった。本音で語り合える恋人であり、同志であり、スポンサーでもあった。彼は柵の中から馬を解放したように、彼女を自由に羽ばたかせた。
 彼は、オペラ歌手をめざしていつの間にか消えた母に、ココを重ね合わせ、夢の実現に向けて懸命に支援をしたのだろう。
ところが、彼もまた別の女性と結婚。彼とは不倫関係を続けることになるが、突然、彼は事故死する。


 なぜココは彼との愛を完結できなかったのか ?


 不在の父を求める娘と不在の母を求める息子。この娘と息子の関係は、人間の永遠のテーマである。
娘が父を求めるのは、その父を欲する母を我が物にしたいため、息子が母を求めるのは、胎内でのあの至福の時を再現したいためである。つまり、2人はライバルというわけだ。
 お互いに「母殺し」をしないことには、1人前の大人にはなれない運命のライバル・・・。 精神的な自立なくしては、何時までも真の意味での自立は不可能である。
従って、「母殺し」をせず、ズルズル引きずる恋愛は、未熟な人間の幻想と化し、終焉は必須だ。
それ以来、ココは男性への愛の遍歴を封印し、人ではなく仕事を愛することによって真の自立を遂げる。


鏡と反射パネルの多用が目立つ。
 ファッションには鏡が欠かせないが、上流階級の飽食による醜い姿や虚構の愛情、ウソにまみれた言葉といったものを、鏡のイメージに託し、皮肉たっぷりに描いている。
 また、似たもの同志という同一化やナルシズムへの批判、内省や決断といった自己の内面を的確に映し出している。


 再起を期しての2度目のショーで用いられる多重反射パネルは、そこに映ったココの幾重もの姿に、彼女の波乱万丈の人生を語らせている。
  自分の店で開いたショーを食い入るように見入るココ。カメラは、螺旋階段の手てすりの向こうの彼女の貌を捉える。
 手すりの幾何学模様のフレームが切り取る多彩な表情・・・。
 前回のショーが失敗に終わったため、死にもの狂いで開いただけに、時折、複雑な陰を見せる彼女の思いをみごとに表現するすばらしいショットである。


テレビ用のドラマを編集した本作は、説明過剰で疲れる。
 その反面、空白期間の説明がつかず、物足りない。3番目の恋人のこと、彼がナチスの将校だったため、敵国への協力疑惑でスイスに亡命したこと、社員のストライキを認めずに解雇し、閉店したこと、アメリカで復活したことなどがスポーンと抜けているのだ。
ファッションに関しては、復帰前のそれはモダンで着心地のよさが感じられるが、復帰後の2回のショーは、ともに古めかしくて、1回目と2回目のデザインの差が明確ではないため、興趣がそがれた。


それにしても、かつてはジャージーを用いた快適な街着を作っていたのに、いつのまにか手の届かない高級ブランドになってしまったのはなぜか?


昨年、生誕125年を迎え、本作を皮切りにココの映画が3本公開されると聞く。
 先日、テレビでも恋愛をテーマにした再現ドラマが放映された。
 ともあれ女性が1人前の人間として扱われなかった時代に、強い意志と美貌を武器にして、自分の哲学を貫いたココに賛辞を捧げたい。
(★5つで満点)