ディア・ドクター

(ネタバレ注意!)
美しい田舎の原風景を舞台に、最初から最後までウソっぽさにまみれたコメディタッチで、シリアスなテーマ性のあるミステリードラマが展開される。
 何がホンモノで何がニセモノか分からない。このあいまいさが本作の肝である。


 観賞中、主人公の胡散臭いキャラクターに違和感を覚え、後味はよくなかった。
 しかし、今になって考えると、この感覚こそ西川監督の狙っていたものではないだろうか。
 観客を映画にのめりこませないで、絶えず解釈を促す演出。王道を行く傑作である。


 観ていて昨年2月、伊勢神宮に行った時のことを想起した。五十鈴橋の上の長い長い行列。偽造事件による販売禁止が解かれたばかりの「赤福」を買うために、数時間待ち覚悟の人たちだった。 
 「ニセモノづくりとはいえ、命に影響のあるほどの悪さをしたのではない。期限切れでも本来の味はさほど変わらないのだから、まあええじゃないか。こんな会社の製品でも、食べたいから並んでいるのだ」と彼らは言う。
 この寛容さをどう解釈したらよいのか?私は彼らを許せなかった。老舗だから安心、という絶対の信頼感を裏切られても良いのか。

 
 私の考え方は本作でも変わらない。
 なぜなら主人公の職業は医師。人の命と直接関わり、安心と信頼が必須だからである。
 彼は職を転々とした挙句、善良な村人を欺いて、医師の資格がないのに、高給の村立診療所長におさまった。しかも、ボランティアと称して時間外の訪問診療をし、悪徳薬剤業者と結託して暴利を貪っていたのである。 
いくら4年間も無医村で、お人好しの多い人口1500人(半数は老人)ほどの村とはいえ、誰も主人公の正体を見抜けなかったとは思えない。彼らは、騙されているかも?と疑いながらも、彼のキャラクターと医療知識&技術を利用していたのだろうか。


 次々と疑問点が浮かんでくる。
・彼はどのような状況でこの村に来たのか。
・彼が悪徳薬剤業者と組むようになったきっかけは?
.元夫が医師というベテラン看護師の存在は村にとって貴重だが、彼女ほどの目利きが、事故に遭遇した患者の救出事件に関わるまで、ニセ医師に気付かなかったとは・・・。
・ 彼は、研修医が来ることになった時点で去るのがベターだと思うが、そうはさせないのが映画だ。この若手医師のキャラクターも、いかにもといった感じでかなり無理がある。しかもこの医師まで、ニセ医師を信頼するとは・・・。
 ・主人公が愛用のバイクと白衣を村内に捨てた後、どのようにして逃げたのか。交通手段はあったのか。最後まで逮捕されないのはおかしいのでは。


本作はある意味メルヘンである。
 ニセ医師がその職業を続けたいのなら、本物以上に努力するのは当たり前。医療に関する勉強はもちろん、患者に対して親切・丁寧に接するなどの「演技 」は必須だ。
 彼はぼろ儲けしたらトンズラするつもりだったが、村民に感謝される度に充実感を覚え、ズルズルと居ついてしまったのである。


 本作のテーマである「あいまいさ」とは何か、をみてみよう。
 主人公をはじめ、登場人物は全員、あいまいさの中で生きている。
 他者との関係において「おかしいな」と思いつつも時には真情を吐露する、ということを繰り返して、互いに変容しながら生きているのだ。


 「本当のことを告白する」と、蜘蛛の巣のように張り巡らされた真実/虚偽、充実/空虚、自己/他者、権力(警察)/自由といった2項対立は断ち切られる。そして、両者は自在に移動し、入り込んで、同時にかつ別々に成立する。
ただ一つの筋道なんてないのである。
 ある時は真で、ある時は偽。ある時は充実していて、ある時は空虚。ある時は自己で、ある時は他者になる。ある時は権力側に立ち、ある時は自由を求める・・・。
人はこのような「蜘蛛の巣の寸断 」を反復し、変容しながら存在するのである。


映画の中で、「反復・変容」の具体的な表現としては、次のような場面がある。
 ・主人公の職業、彼の語る父親の職業はコロコロ変わる。
 ・クルクル回る洗濯機、
 ・彼が恋する未亡人のカルテの上を、転がって飛んでいくカナブン。
・夜、未亡人宅を訪問した後、彼は、医師である父から盗んだ病院のロゴ入りのペンライト(屈折した彼自身のメタファー)をぐるぐる回しながら彼女に挨拶する。
・看護師の指示による処置が成功した後、患者を病院に送り届けた主人公がそのまま立ち去ろうとしたとたん、病院の医師が現れる。手腕を褒められ、ニセ医師を続けることに・・・。
・未亡人は主人公のウソと自分の病気の重さを知っていたが、夫が過剰な医療に苦しみながら死んだという苦い経験を踏まえ、自分の死をありのまま受け入れてくれる彼と同化していた(夫の好きな落語=鶴瓶をラジオで聴く)。
・未亡人は自分の娘である医師に思い切って電話をかけたのだが、留守だった。結果、彼女はウソをつき続けることに・・・。
 ・未亡人の娘は、母の病気の処置の誤りに気付いてはいたが、父の病気のトラウマから脱することが出来ず、ニセ医師に母を委ねる。しかし、最後は自分の勤務する病院で看取る。
 ・主人公は研修医にニセモノであることを告白し、しばらくしてから失踪。公衆電話から父にペンライトの件を話した後、再び医療の仕事に就く。
 ・研修医は主人公の正体を知ったにも関わらず、彼を追い込まない。後日、後継者として診療所の仕事を積極的に引き受ける。
 ・刑事は研修医や看護師に「彼をホンモノに仕立てようとしたのは、あんたたちじゃないのか。刑事である自分たちの方がニセモノかも?」と本音を吐き、無意識的にではあるが、逃走中のニセ医師を見逃す。
 ・悪徳薬剤業者は、突然倒れてみせて、刑事が本能的に助けるのを「これって愛じゃないですか」と揶揄する。彼は急患を運ぶなど、「良心」を併せ持つ人間でありながら、悪事を続ける。


後日、公の場で、主人公がニセモノと分かったとたん、「そういえば・・・」と本心を語る人々・・・。
 彼らは、彼がニセモノであることを承知していたが、メルヘンを壊したくなかったのだ。


  ここでは、善悪を超えて回帰するしかない人間の業がある。
暴頭とラスト近くで、精神障害者の青年がハーモニカを吹くシーンがあるが、彼は善悪を分けずに生きる人間というものを象徴しているのだろうか。

 主人公の「父と息子」の確執、未亡人の「母と娘」の複雑な関係も、あいまいさの中で見えてくる。
 主人公はガラスに、未亡人は鏡に、1回ずつ顔を映すが、虚と実の間を往還する人間のありようを表現しているのだろう。


 行間を読む楽しさに満ちた、小説のような味わい。西川監督の作品にはいつもゾクゾクさせられる。本年度ベストワンに挙げたい。
(★5つで満点)