行 私を離さないで

 社会の掃きだめにいる人々から生み出された、臓器移植のドナーとなる宿命の「クローン人間」。彼らをモノとして扱う国家。自分たちが生き延びるために、彼らの意識のあるうちに、臓器をむさぼり、取りつくす私たち・・・。
 男女3人の主人公である「クローン人間」は、まさに傲慢な「神」となった人間に捧げられる「いけにえ」だ。本作は、現代社会に潜む「暴力」のメタファーとして、読み解くことができる傑作である。


 私たち人間は、自分の生のために、日常的に「暴力」をふるう存在だ。自然界のなかで、自分以外の生物(ヒトを含む)やモノである「他者」を犠牲にして生きている。
 例えば食べ物。そして原子力発電もそのひとつだ。他者の意思を無化し、一方的に服従させ、最終的には死に至らしめるような行為を平気で行っている。
 

暴力を被る側は、暴力をふるう側から客体/モノとして扱われ、一方的に暴力を行使される。決して主体にはなりえない。こうした状況に関して、私たちはほとんど無自覚
である。


 本作における男女3人の関係は、社会の縮図だ。
 数字の1は絶対、2は相対、3は発展を表すといわれる。1でも2でもない3は、2つに分離した働きに対し、3番目の働きをする。固定化や対立化しがちな2つの関係にパワーを生じさせ、新しい方向性を生み出す。「3人寄れば文殊の知恵」である。
トミーとキャシーの親密な男女関係に、亀裂をもたらす女性ルース。しかし、それゆえに、3人に新しい世界が開かれる。


 3人は臓器移植のドナーとして、短い生涯を全うしなければならない。だが、真の恋人同士であることが証明されれば、ドナーになることを一定期間「猶予」され、2人で暮らすことが可能になるという。
 キャシーから奪ったトミーと別れ、すでにドナーとなっているルースは、「終了=死」を前にして、トミーとキャシーに償いをする。苦労して入手した、「猶予」の権限を持っているマダムの住所を教えるのだ。
 そうすることで、ルースには贖罪を果たした満足感が、トミーとキャシーには希望的観測に満ちた束の間の幸せな世界が広がる。


 ところが、ルースは数回にわたり臓器の提供をしたにも関わらず、快復のための治療もなされず、だんだん弱ってついに役目を「終了」する。
 トミーとキャシーもまた、「猶予」は噂に過ぎなかったことを知る。


満を持して2人で訪ねたマダム宅で居合わせたのは、幼児期から育てられた寄宿学校の校長だった。トミーは、キャシーへの真摯な愛を理解して貰おうと、魂を込めて膨大な数の絵画を制作し、校長に披露した。
 しかし校長は、「貴方たちに心はあるの?」「絵画制作を奨励したのは魂を探るためじゃない。魂があるのかを知るため」「猶予は今も昔もないの」とにべもない。さらに、「面白い作品ね。頂いてもいい?」とのたまう次第。


 寄宿学校では、とりわけギャラリーでの絵画展が盛んだった。親を知らない学生たちは、自分の魂を確認するために、内面を表現しようと必死で取り組んでいたのに、先生を初めとする国家プロジェクトの関係者たちは、単なる落書きとしか見なさなかったのだ。
 外界から隔離された特別な環境で、芸術やスポーツを楽しみながら丁寧に育てられたのは、心を養うためではなかったのか?クローン人間の健康状態を良好に保つための、一種のストレス解消策だったのか?


トミーは、校長の言葉に投影された、あまりにもみじめな自分の姿に絶望し、「作品は渡さない」と宣言。奈落に突き落とされた苦痛から「ウワ〜ッ」と絶叫する。
 

 苦痛は言葉を打ち砕く。苦痛は言葉を獲得する以前の叫び声へと、人を押し戻してしまう。 暴力は言葉の力を無力化する。
トミーは程なく「終了」させられた。


 彼らの閉ざされた狭い共同体は、一種の強制収容所である。自動車を運転して外出できるなど、一見、自由に暮らしているように見えるが、彼らは決して逃げたり、抵抗したりしない。
 そうした言葉を発することを最初から奪われているのだ。
 こうしたテロル(為政者による暴力行為)は、各人が唯一の存在であることを表現するための言葉を奪うだけでなく、恐怖という苦痛の中に身体を閉じ込めてしまうので、人々は外部世界へと参入することができなくなる。
 

 3人が元気だったころ、廃船などの遺失物がすべて流れ着く海辺の町クローマを、彼らは度々訪れていた。この町で、トミーはキャシーのために”Never Let Me Go”が収録されたカセットテープを探す。ルースはトミーと、自分の母親を探す・・・。
 ここは彼らが育った施設とは異なる未来を探す町のはずだが、彼らと人間とを隔てる透明な壁があり、覗き見するだけで何も見つけることができなかった。
 過去だけが集積し、未来への展望はない絶望の町。「クローマ」という町名は「クローン」に通じるのか?
この町は、私たちの未来には確実に「死」が訪れるというメタファーである。


 ドナーとなる日が近づいたキャシーはつぶやく。「トミーを知っただけでも幸せ。人は皆終了する。生を理解することなく命は尽きるのだ。提供者(クローン人間)と被提供者(人間)との間にどんな違いがあるのだろうか?」と。


今では、寄宿学校は閉鎖され、効率追求のため、ブロイラー式に飼育されているという。魂を養うことなく肉の塊として生を全うした方が、悩むこともなく幸せなのだろうか?


近頃、これほど心に残る映画は滅多にない。すべての点で完成度の高い必見作である。(★5つで満点)