物置のピアノ

2014年 日本 似内千晶監督


 友人の映画監督・武重邦夫が3.11後の福島をテーマにした骨太のドラマを作った。

福島県北部、宮城県に近い中通りに位置する宿場町、桑折(こおり)の桃農家の話である。原作者は同町出身で、自分の家族と故郷をモデルに書き上げた。


 単なるご当地映画ではない。東日本大震災原発事故災害の悲惨さを前面に出すのではなく、背景にそれらの影響が垣間見える青春映画である。観た人が「前向きに生きていくことの素晴らしさ」を実感できるのがうれしい。


 3.11から1年経った2012年の夏休みが舞台、高校3年生の宮本春香の心の動きと成長を中心に描いている
 キーワードは桑折町の誇る美しい自然の産物、「桃」と「蛍」。この2つを軸に、宮本家は喪失から再生へと立ち上がる。


 原発事故災害による風評被害で桃が売れなくなり、生産者の祖父は認知症が進行する。
 その後継者になりたいと宣言し、祖父を喜ばせていた幼い弟は、かつて祖父や姉たちと楽しんでいたホタル狩りの最中、事故死した。


 薄暗い物置にあるピアノは、ピアニストを嘱望されていた姉の挫折の象徴であるが、今では春香の心のよりどころとなっている。
自信に満ちた優秀な姉、不器用で臆病な妹。春香はいつも比較されて淋しかった。


物置の戸を開けると、そっと光が差し込む。足を一歩踏み入れ、しばらく立ち止まってから、ピアノに向かう。そして祈るようにピアノを弾く春香。
 そうした一連の行為は、彼女の心の中を覗いているような心地にさせる。

 
音大に行きたい春香だが、進路を決めかねていた。祖父への愛、弟への償い、家計のことなどを考えると、桃農家の後継者という選択肢が視野に入ってくるのだ。
 そんな時、東京の大学に通う姉が突然帰郷する・・・。


 姉との葛藤、親友の妊娠、浪江町から来た仮設住宅の転校生との恋、被災者の就職事情、父親の桃農家についての考え方、被災者支援チャリティコンサートなど、春香を取り巻く状況は日々変化する。
 様々なエピソードが細密画のように丁寧に描写され、、豊かな自然や風物詩と絡まってじわじわと心に沁みてくる。


 圧巻は姉との確執。2人の弾くピアノを聴くのが好きだった弟を亡くした姉妹はともに悲しみを引きずっている。姉はピアノを物置に封印し、妹はそのピアノに弟の幻影を見ていた。
 ピアノの技量が逆転した今、姉は妹に嫉妬し、転校生の少年を巡って争いを繰り広げる。


 もう一つのキーワード「音楽」の演出がすばらしい。姉妹のピアノはもちろん、少年のトランペット、高校音楽部の演奏など、全編にわたって美しい音色が響く。
 「音楽は人を救う」というが、姉妹も祖父も少年も、町の人々も仮設住宅の人たちも、音楽を手がかりに生きる希望を掴みとっていく。
 ホタルに誘われるピアノの連弾とチャリティコンサートの「ウサギ」の歌のシーンでは、涙がとまらなかった。


物語と同時期の2012年夏、私は福島を訪れた。桑折町の近くに泊まり、浪江町の被災者と知り合った。仮設住宅を訪ね、レンタカーで南相馬市福島第一原発立入禁止地区の小高まで海岸沿いを走り、飯館村を通った。


想像を絶する凄惨さに息をのんだ。この目で確かめて始めて知る災害の状況・・・。
 復興は何も進んでいなかった。瓦礫のままのゴーストタウンが広がっていた。
 しかし、まだ1年しか経っていないのに、遠く離れた私たちの間ではすでに風化が進んでいた。


 福島県民の無念さを少しでもでも共有することができたら、と思い、被災者たちとの交流を続けている。桃は格別美味しいので、毎年届くのを楽しみにしている。


本作は、3.11で中断した町おこし映画を、福島県出身の映画スタッフが、地元の人々と共に作ることで精神的な支えになれば、と再開したもの。
 似内千晶監督のデビュー作である。被災者の日常生活を丹念に追うことで、彼らの思いをしっかりと伝えており、私たちに深い感銘を与えてくれる。新しい才能に拍手したい。
(★5つで満点)

 

燦々

2013年、日本、外山文治監督

 高齢者が主人公の作品が目白押しである。本作は老いや死を背景にした、少しシリアスなラブコメディ。脚本・監督は高齢化社会をテーマにした短編部門で数々の賞に輝いた32歳の外山文治、長編デビュー作だ。吉行和子山本学宝田明らが熱演している。


 私事になるが、より多くの同世代の考え方や行動が知りたいと思い、6年前、シニア対象の市民大学に2年間在籍した。そこで体験したできごとが本作と重なり、思わずクスッとする場面が度々あった。


  77歳にして婚活を始めた吉行和子が、周辺の人を巻き込み、どんどん輝いていくドラマだが、驚いたことに、登場人物たちのほうが、私の学友たちよりずっと真面目なのだ。


  シニアの恋愛は想像以上に多い。学友の約半数がシングルだが、伴侶の有無に関わらず、大胆なカップルが次々と誕生した。不倫やナンパ、ストーカーなども日常茶飯事。しかもほとんどの恋愛関係が今も続いている。


 本作と比較すると、彼らの脳天気振りが目に付く。
例えば、婚活中の吉行が、紹介所で出会った山本学に恋をするケース。彼は熟年離婚したのだが、介護が必要な前妻への罪悪感が払拭できない。「話をしたかっただけ」と吉行に告白するクライマックスシーンは十分納得できるが、学友は認知症の妻を介護しながら、同級生との逢瀬を楽しんでいる。


 吉行は、女性をセックスの対象としてしか考えていない男性とも見合いをする。他の男性たちとは一線を画する彼のホンネ振りは印象的だ。
 学友の中にもその類の人がいたが、ナンパされる女性たちも心得たもの。”老いてなお盛ん”であることを自慢している次第。
” 事実は小説よりも奇なり ”なのである。


  動機はそれぞれだが、誰もが出会いを求めている。
  映画では、主要な登場人物の背景が浮き彫りにされているので、悲惨な過去にも思いを巡らせることができる。喜劇であっても、ベースにある人間の悲しみを感じとることができるため、笑って済ませることができなくなる。
  現実では、他人にはなるべく弱みを見せないようにしているので、”いいとこ取り ”をしているように見えてしまうのだろう。私を含めて傍観者は総じて冷ややかである。


 本作は介護や死の場面もかなりあり、リアリティがあるので、考えさせられることも多い。若者の視点から描いた、ある種のファンタジーでもある。
  予測不可能な展開もあるが、予定調和的な部分もあり、ほのぼのとした気分にさせてくれる。そして何よりも勇気を与えてくれる。
 吉行は言う。「騙されても裏切られても、何にもないよりずっといいの・・・」と。


  前述の学友カップルたちが長続きしているのは、どの人も「人生最後の日々を燦々と輝かせたい」と思って、お互いを慈しむからだろう。毎年、約500名の入学者の中で、5組ほどが結婚すると聞く。
 結婚しなくても、仲睦まじいカップルは沢山いる。OB会や街角などで会うと、堂々と手を繋いでいる人もいる。そして間違いなく年々若々しくなり、華やいでくる。

 
  高齢者の恋愛はもうタブーではない。全ての輝きたいシニアにはもちろん、出会いを諦めているシニアに本作を強くお勧めしたい。共感の中に得るものが沢山あるからだ。
(★5つで満点)

風立ちぬ

  宮崎駿作品は苦手だ。しかし、複数の映画サークルで課題となったため、仕方なく観たが、やはり好きにはなれなかった。
 足が地に着いていないのだ。絵空事のような世界が展開し、しらけるばかりだった。


 なぜか?


第一に、女性が男性の視点から描かれているのだ。
 ”美人薄命”を地で行くようなヒロイン。あの時代にあって、不治の病に冒されている彼女は、恋愛に命をかけて死んでいく・・・。
 ”いちばん美しいところだけ”を恋人に見せて去る、とはまさに男性の願望に寄り添った滅びの美学である。


結核を患う彼女の前で、「吸ってもいいか?」と尋ねるヘビースモーカーの主人公。彼女は片時も彼から離れたくないので、承諾してしまう。彼はそれをいいことに煙をまき散らしながら、仕事に没頭する・・・。
ここには”耐えて支える女/自己中心の男”という構図が見られる。彼女の心情と病状を理解しながらも、自らの欲望に負けてしまう彼。これはどこかに「男尊女卑」思想が潜んでいるからだろう。
 もし逆の立場だったら、女性もそうしただろうか?


第二に、描かれているのが、富裕層とエリートの世界である。男手を戦争に取られ、食料もままならない庶民の苦しみとは無縁のように見える。
 関東大震災の際に知り合った本作の恋人たちのような切羽詰まったエピソードが、戦時中はなぜか皆無である。


第三に、”夢追人”と”兵器造り”は矛盾している。そこに葛藤はなかったのだろうか?
零戦は100%人を死に追いやる武器である。モノづくりに賭けるエンジニア魂の追求は分かるが、少年の夢の果てが殺人装置になってしまったとは・・・。観ている側も非常に辛い。
彼に他者の痛みを我が痛みとするイメージができていれば、先述のタバコを巡るエピソードも起こらなかったのではないだろうか?


因みに亡くなった父も戦時中、零戦造りに関わっていた。テスト飛行で墜落するのは日常茶飯事。早くから「この戦争は勝てない。しかし命令なので造らなければならない」と、母に漏らしていたという。
「父さんなりに苦悩があったのでは?」と、95歳の母は語る。


風の中で舞う蝶や帽子、紙飛行機などは、主人公たちの魂のやりとりのようだ。飛行機も彼らの世界観も、全てがフワフワと宙に浮いている。違和感を抱きっ放しの落ち着かない2時間だった。
(★5つで満点)

共喰い 2013年、日本、青山真治監督

 オイデプス王と王女メディアの悲劇を想起させる家族の物語。息子は同居している父の愛人と、父は息子の恋人と交わり、母は夫にとどめをさす。


 都会から離れた小さな田舎町。町を貫く淀んだ河口に架かる大橋。「河は女の割れ目」という父は、それを跨ぐ橋に自分を重ね、「この河の傍ではセックスしか楽しみがない」とのたまう。


 この町の神社の境内で知り合った父と母。父は筋金入りのサディストで、セックスの最中に女を殴ったり、首を絞めることにより、自分だけの快楽を追求する。そのため母は息子を残して逃げ出し、川向こうで1人暮らしをしながら魚屋を営んでいる。
 父は若い愛人と高校生になった息子の3人で暮らしている。


 息子も同級生の恋人とここの神輿倉でセックスを重ね、サディストの連鎖を恐れながらも、彼女にDVしてしまう。境内で遊ぶ子どもたちは、その光景をのぞき見しているようだ。
 「聖と俗」の混交が神話性を醸し出し、悲劇の予感が全編に通底する。


 おろした魚の内臓や血などを河に捨てる母、風呂場から精液を河に流す息子。その河から息子はウナギを釣り上げ、母は捌き、父の愛人は皿に盛り、父は1人で肝まで喰らい尽くす。
 まさに「共喰い」である。


 ウナギ、肝、ミミズ、ナメクジ、釘針、釣り竿など、橋の他にも男性を表すメタファーが頻出する。
 オスのウナギはメスの河から生まれて、そこに還ってくるのだ。
 母は先の大戦で左手を失い、金属製の義手を着けている。義手は男性器を連想させ、夫のそれのように凶器と化す。


 父と息子は(娼婦も含めて)互いのパートナーを結果的に共有し、暴力的に犯すことを反復。愛のないセックスにより、女性たちに去られてしまう。


 母は息子の父への殺意を感じ取り、女性への暴力の連鎖を断ち切りたいとの執念と息子を守るために、夫を義手と刺身包丁で始末する。
 血を洗い清める禊ぎのように、包丁が突き刺さったまま、自分が生まれた場所=女の割れ目である河に還っていく父。
 一部始終を見ているだけの息子・・・。


 半年後、息子は町を脱出して父を乗り越えようとするが、戻ってきてしまう。
暴力を防ぐため、父の子を身籠もったと嘘をついた父の愛人はスナックを経営し、息子の恋人は彼の母の服役を機に魚屋を継ぐ・・・。


 ゴミの浮くドブ河は、ウナギを生み出すエネルギーに充ち、したたかに生きる女たちそのものだ。暴力は男の専売特許ではない。女も動物を殺戮する存在なのだ。
 一方、河に回帰しても釣られて喰われるだけのウナギは、男たちの脆弱さを表象する。


 折しも昭和の終焉を告げる日が来た。面会に来た息子に天皇の戦争責任に言及する母。『戦争と一人の女』の脚本家・荒井晴彦は、本作でも面目躍如である。

 家父長制社会から、新時代の再構築へ・・・。夜明けを連想させる終幕。
 父と息子、母と息子、食欲・性欲・暴力性、聖と俗など人間の根源に関わる問題が満載の秀作である。
(★5つで満点)

3人のアンヌ

2012年、韓国、ホン・サンス監督
言語は、それを書いたり口から発せられたりした瞬間から1人歩きする。本人の意図と受け手の解釈との間に裂け目が生じ、オリジナル性は失われ、他者に委ねられるからだ。
 とりわけ書き言葉は、本人の在不在に関わらず(死後も)、他者の眼に触れるため、多様な解釈・引用・接ぎ木などによって、無限に新たな意味(差異)を獲得・創出することができる。


本作で映画学校の学生が書いた、アンヌを主人公とする3本の脚本は、まさにそうした書き言葉の宿命を表している。3人のアンヌの物語は、読み手の映画監督の手に渡った途端に、1人の女性を反復させて紡ぎ出す差異のドラマになったのである。


 3本に共通するのは、アンヌという名のフランス人女性、韓国人男性の映画監督、韓国人男性のライフガード、韓国人女性の貸別荘管理人、ビニール傘、三叉路、テント、灯台・・・。

2か国の人々がコミュニケーションをとるために、それぞれの自国語に加え、共通語として英語を用いる。当然、話し言葉にズレが生じ、コミュニケーションはスムーズには行かない。
 1番目のアンヌがライフガードに渡した英語の手紙の「美しい」という文字を彼は読めない。
2番目のアンヌは、海を見てフランス語で「美しい」と言い、3番目のアンヌも「綺麗だ」とフランス語で感嘆し、立ち尽くす。
 3番目のアンヌを、監督は「君は美しい」と英語で口説く。
 同じ「美しい」という言葉でも、微妙に意味が違ったり、通じたり通じなかったりする。
1つの意味に収斂することはできないのだ。


 それぞれのアンヌが散歩に出かけようとする度に雨が降って来て、管理人から傘を借りる。これは、「用意された物を受け取る」という行為を通して、これから次々と起こる物語の始まりを想起させる。 
 過去は現在の行為の条件となり、現在の別の反復を準備することを示唆している。
 2番目、3番目のアンヌが同様に傘を借りるのは反復であるが、傘の使い方は一様ではない。
 言葉も行為も反復することにより、差異が生まれ、事態はどんどん変容するのだ。
 因みに傘は男性器のメタファーで、アンヌの欲望の対象であることを暗示する。彼女を誘う2人の男性監督とライフガードの欲望と対になっている。


 
 三叉路では毎回、どちらに進んだらよいのか、どのアンヌも選択を迫られる。
 季節外れのライフガードは、「命を守る」という明確な目的を持っていない。
ライフガードの貧弱なテントは、彼と3番目のアンヌとの隠れ家にもなるが、アンヌたちにとって不要なプレゼント(贈与の不可能性)の対象でもあり、不確かな存在だ。
灯台は、1人目のアンヌには見つからず、2人目は見つけることができ、3人目はミニチュア(反復)のそれを眼にするだけだ。
3人のアンヌはそれぞれ、「やれることをやるだけ」「何もやることがない」「どうしたらよいのか」と言う。現状に閉じこもり、自ら切り拓いて新しい意味を見出そうとしない意志薄弱な女性だ。


三叉路、ライフガード、テント、灯台、アンヌは、それぞれ「決定不可能性」を表す。「決定」は排除の暴力を伴うが、「決定不可能性」は他者を含むなにものも傷つけない非暴力の世界を開示する。

 

1番目のアンヌが海岸で見た焼酎ビンの破片は、3番目のアンヌが海岸で飲んだ焼酎のビンと繋がる。
 1番目のアンヌを誘惑した監督は、3番目のアンヌにも同じ行為をする。
 2番目のアンヌが傘を置いた場所から、3番目のアンヌはそれをとり出す。
民族学者の女性は、パートナーの僧侶に万年筆をプレゼントし、僧侶は3番目のアンヌにそれを贈る。学者はそのことを恨む(贈与の不可能性)が、赦して和解する。


こうした円環は、閉じたそれではなく、開かれているらせんである。


1番目のアンヌが山羊に向かって鳴き声で呼びかけるのは、他者への応答である。絶対的起源としての自己など存在しないのだから、他者を通して自己を確認しているのだ。
 3番目のアンヌが、ライフガードと1本の焼酎を交代で飲むのも、自己と他者が共存在の関係であることを示す。


ホン・サンスはやりたい放題のように見えて、実に戦略的である。様々な脱構築的表現により、新しい存在のあり方を志向しているのだ。 
(★5つで満点) 

少年H

2013年、日本、降旗康男監督


 我が国の右傾化が話題になる昨今、「東宝」というメジャーな映画会社により、反戦メッセージ満載の本作が製作されたことは賞賛に値するといえよう。
しかし、現存者の自伝映画は、本人に対するリスペクトもあってか、美化されがちだ。川本三郎の『マイ・バック・ページ』もそんな傾向があり、私は評価していない。


日本を代表する舞台美術家の一人、 妹尾河童(1930年生まれ)が著した同名小説がベース。「H」とは、彼の本名「肇」が由来のニックネームで、11歳から15、6歳ごろまで(第2次世界大戦開戦前後〜戦後)の物語だ。
 リベラルな父、カチカチのプロテスタントの母、妹で構成される仲良し家族。一家は神戸で洋服屋を営んでいるので、外国人との交流も多く、父の柔軟な発想はそうした縁によるものだろう。


父の言動は感動ものだ。あの時代にあって、時局をいち早く読み解き、「この国で起きていることは、(在日)外国人の方がよく分かっているかも知れない」と言う。
 スパイ容疑をかけられ、警察で拷問にあった際も、自分の友達が告発したのでは?と疑う息子に対して、「犯人捜しはしない。自分がしっかりしないと潰される。今起きていることを自分の目でしっかり見ることが大切。信じるのは自分だ」と諭す。
また、妻に対しても「他の人の信ずる宗教も認めよ。信仰は心の中にある。表面はどうでもいい」と語る。


 そんな父の影響を受けたHは、万事につけて一言多い少年に育つ。
 「高層ビルや自動車がある国に日本は勝てるのか?」「銅像まで供出して、日本は大丈夫だろうか?」「日本軍が玉砕するのは、日本という国が悪いからだ」・・・。
確かにそうだが、既に映像で提示されていることに加えて、少年のそうした大人っぽい言葉が出されると、観客は考える余地がなくなる。


 さらに、映像も過剰な割には。拍子抜けの感がある。
 父が拷問された右手、空襲の修羅場での母子のバケツ消火とミシン運びなど、どう見てもかなりの身体的なダメージを負っているはずだが、スーパーマンの如く、何でもなかった風に処理されている。


 エピソードも詰め込みすぎだ。女形の舞台姿、ユダヤ人の洋服修理、戦後、銃を土中に埋める、行き倒れの人への握り飯供与、Hの旅立ちに添える父の言葉(以前に語ったことのくり返し)など、なくもがなと思った。

 本人は軍事教練で教官に殴られ、片耳の聴力を失ったそうだが、そうした負の部分は描かれず、理想的な家族の中で育った独立心の強いHが、15歳で家を出て、混乱の戦後を「不死鳥」のように生きていく・・・。


少年が余りにも立派過ぎて、どこか嘘っぽく感じられるので、共感しにくい。 内容は悪くないのに、標語の「清く、正しく、美しく」的な押しつけがましさが目立つ。
 饒舌に語るのではなく、行間から感じられる反戦邦画を観たいものである。
(★5つで満点)

アンコール!!

2012年、イギリス、ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督

 あまりにもステレオタイプで、予定調和とご都合主義丸出しの退屈な作品だ。俳優がテレンス・スタンプ&ヴァネッサ・レッドグレイブと豪華なので、もっと深みがあるのかと期待していたが、単純なお涙頂戴ものに過ぎなかった。
 

 老人の音楽もの映画といえば、アマチュアでは『白百合クラブ東京に行く』や『ヤング@ハート』など、プロでは『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』などのドキュメンタリーに感動したものである。
 彼らの音楽はもちろん素晴らしかったが、それ以上にメンバー一人ひとりの生き様に胸を打たれた。様々な人生を乗り越えて、辿り着いた先の夢の実現・・・。


本作では、一組の夫婦とその息子との愛憎、若い女性指導者の失恋が描かれるだけだ。
 とてつもなく頑固で気難しい夫、がんを患い余命幾ばくもない妻、父と折り合いの悪い息子、恋愛下手な指導者。
 合唱団のメンバーは、そんな一家を温かく見守ってくれる貴重な存在で、指導者を頼りきっている。


全体の陰影が伝わってこないのは、夫はなぜ息子と仲が悪いのか、指導者はなぜ失恋したのかを全く描いていないうえに、出身地(国)や宗教などの違うメンバー個々人のドラマが見えてこないからだ。


一家の生活に絞り込んだのは、シンプルな構成に拘ったからだろうが、合唱団というからには、もっと複数の絡みがあってもいいはずだ。
 登場者全員が善人。夫のうんざりするほどの頑固さが、彼らのお陰で雪解けするまでの物語に終始するので、先が読めてしまう。


 合唱団の音楽はロックあり、フォークありでユニークだが、コンクール決勝大会当日に規定違反で退場させられるのは納得できない。予選の段階で分かるはずだ。
 そのうえ強引にステージに上がり、賞まで獲得するなんて・・・。


イギリスらしい風景がふんだんに見られ、墓地にはアイリッシュ系のハイクロスもあって、最近の彼の地への旅を思い出していた。
 主役の2人の演技の素晴らしさはいうまでもない。


 しかし、脚本が良くない。感動狙いが見え見えである。加えてタイトルにも疑問がある。「アンコール!」のシーンなど1つもないのだ。


 老人映画全盛の感がある。分かりやすいのはいいが、安易なのは困る。老人の鑑賞力をなめてほしくない。
(★5つで満点)