ミリオンダラー・ベイビー

(ネタバレ注意!!)ボクシングと詩には共通点がある。だから主人公のボクシングトレーナー、フランキーは、ボクシングとともに、同郷のアイルランド詩人、イエーツの作品をこよなく愛する。本作のテーマは“言葉のパラドックス”だ。


 フランキーは言う。「ボクシングは理屈じゃない。人の考えの逆をいくのだ」と。なるほど、ボクシングは自ら痛みを求めるスポーツだし、攻守の際には通常の考えとは逆の方向に動くものらしい。さらに、フランキーは言う。「骨が忘れるまで叩いて、身体の一部にしてしまうのだ」と。ボクシングは、頭の中でプログラミングするのではなく、身体的な反射(直感)によって戦うことが求められるのだ。


 詩も通常の言葉とは対局にある。通常の言葉が意味と直結し、言葉の世界の中にいるのに対して、詩は音やリズム、反復などにより意味を攪乱し、言葉の世界を脅かす。つまり、通常言語は、頭脳的プログラミングが可能な、家父長的イメージがあるのに対して、詩的言語は、身体的で計算不可能な、母なるものというイメージがあるのだ。


 いずれにしても言葉は“欠如”を意味する。どんな言葉も一言ですべての意味を表すことはできないのは、父なるものの根源的な暴力性が、母なるものとの同一化を禁止するからである。
 人が言葉を獲得するのは、母なるものとの永遠の同一化を諦めることへの見返りだ。母なるものを排除する暴君的な父なるものとの同一化を果たすことで、言葉の世界に参入し、母を乗り越えるのである。フランキーが娘ケイティに宛てた手紙がすべて返送されるのは、こうした“言葉の欠如”を表す。ケイティは、父を拒否することによって、父の暴力性を訴えているのだ。
 フランキーが「女はお断りだ」とマギーの入門を拒否したり、弱者であるデンジャーを「追っ払え」と言うのは、家父長的暴力性を表している。


 フランキーは、娘に宛てた手紙が絶対に受け取られないことを知りつつも、延々と書き続ける。詩が好きなのも、こうした宿命にある”父と子の関係性=言葉のパラドックス(言葉を獲得するには、暴力・排除・欠如が必須である)”、を知っているからだ。”意味を攪乱し、謎々や魔力を生み出す詩=母なるもの”を愛することで、暴君的だった過去を反省しようとしているのである。
 一方、マギーは、言葉を獲得する以前の母なるものから、精神的に未分化のまま外に放り出された赤ん坊である。母なるものとの同一化を諦めて父なるものに向かおうにも、第一段階(母との蜜月)をクリアーしていないのでは話にならない。ボクシングという異質な世界での成功を望むのは、母の関心を自分に向けたいがためである。
 しかし、彼女の母は子供の成長段階の構造を理解していなかった。父の死も、弟の刑務所行きも、妹の貧困も母の無知が原因だろう。


 マギーが倒れた直後、画面は三度暗転する。ボクシングによって結ばれているマギー、フランキー、スクラップの三人が三様に深淵を体験し、それぞれがかけがえのない存在であることを確認するのだ。詩もそれが成立するには、詠む人、語る人、その両者を仲介する人の三者の存在が必要条件であり、ここでも詩とボクシングの関係が提示される。


 さて、深淵を経て、三人の世界観はどのように変わったのだろうか。
 マギーは、残念ながら未分化から脱することはできなかった。最後の最後まで母なるものを求め続け、それが叶わないと悟った時、絶望のあまり死を決意する。母なるものとの同一化を諦められないので、父なるもの=フランキーとの同一化を果たすことができなかったのだ。


 フランキーは娘への贖罪をマギーに重ねていたが、すべてを受け入れることこそが贖罪であると悟る。彼が度々語るイエーツの詩『イニスフリー』は、アイルランドに実在する島、都会に住む我々にとっては幻の島である。「私たちは心の中にそれぞれの憧れの島を持っているのに、その島と心を結ぶすべがない」、と不条理の悲しみを詠ったこの詩は、フランキーとケイティ=マギーとの関係性の隠喩である。
 ちなみに、20世紀最大の英詩人といわれるイエーツは、19世紀末に、キリスト教の時代が終わりを告げ、新しいイメージの時代が始まることを予期していた。フランキーがカソリックの神父に逆らい、マギーの尊厳死の手助けをしたのは、その影響もあると思う。

 
 スクラップは、唯一の親友であるフランキーの不幸を目の当たりにすることで、一層深い孤独感を味わうとともに、人は誰かと一緒に生きる存在であることを再確認する。デンジャーを支えるのはそうした思いが根底にあるからだろう。


 そして「モ・クシュラ」。フランキーがその意味を、マギーの死の間際まで教えなかったのは、まさに“言葉のパラドックス”である。言葉の意味は必ずズレるし、言葉は常に遅れて(痕跡が反復されて)成立するのだから。「モ・クシュラ」とは“愛する人よ、お前は私の血”という意味であるが、現実はもちろん文字通りではない。それは、ケイティにこそ言うべき言葉だったのだ。
 しかし、解釈はどのようにもできる。“お前との絆はそれほど深いのだ”とか、“同じアイルランド系であっても、お前との間にはゲール語という溝が絆とともに横たわっているのだ”とも・・・。


 人は他者との同一化を求めるが、同一化しても必ず疎外が伴う。いかなる同一化も私たちに安定した同一性を与えない。世界観を変えるには、同一性を求めないことである。その都度開示される意味のズレをすくい取って、何かを生み出すことが重要である。たとえばフランキーのように、そしてスクラップのように・・・。


 本作は詩とボクシングの関係を通して、“男性・女性”、“強者・弱者”といった二項対立を切り崩し、人間の新しい可能性を提示している。同時に、人が成長するためにはどういう段階が構造化されているか、といった根源的な問題も提起している。


 劇場で観終えた後、私は、あまりにも示唆に富んだ内容と表現のみごとさに、しばらく立てなかった。本年度屈指の作品である。


ミリオンダラー・ベイビー★★★★★(★5つで満点)