ホテル・ルワンダ
力作であり、必見である。観た後、しばらくは言葉を失った。
同じ日に 「ロード・オブ・ウオー」を観たが、この二つの作品がみごとに繋がり、問題の根の深さに愕然とした。
「ホテル・ルワンダ」では、主人公ポールが、体制派のフツ族でありながら、反体制派のツチ族を救うという英雄的な行為に焦点が当てられ、”悪玉”としてフツ族の民兵が登場する。
観客は被害者であるツチ族と同化して、フツ族の民兵の残虐な行為を非難し、何とかしてツチ族が助かって欲しいと切望する。
内戦の背景にある、北の白人為政者たちの行為は、次のような言葉などから想像するだけで、明確な悪として描かれてはいない。
国連のPKO代表である大佐は「大国は君らをゴミと思っているから、救う値打ちが無いと言っている」「君はブラックだからオーナーになれない」と言う。
ホテルのベルギー人オーナーは「仏大統領は、ルワンダは価値が無いと言っている」と語る。
一番問題にすべきことが、こうした間接的な言い回しでポールに示され、話す本人たちは”無力な白人の善玉”として描かれているのは、商業映画の限界か?
折りしも3月6日の朝日新聞朝刊に、「イラクは宗派間の対立をベースに内戦化しつつあるが、米軍は一方への加担を恐れ傍観している」との記事が出た。なるほど・・・。
ルワンダは、ドイツやベルギーなど白人の大国の都合により内戦が引き起こされ、フランスも武器を供給していた。イラクも然りなのだ。
南の国が平和へと向かうとき、必ず何らかのトラブルが起こり、泥沼の内戦へと移行する。その影では超大国のトラブルメーカーが暗躍しているのである。
「ロード・オブ・ウオー」で、武器商人の主人公は言う。「平和は大損害。和平交渉なんかクソ食らえ」「左右両派に武器を売るのが仕事」「戦争は(世界経済の活性化にとって)必要悪。最大の武器商人は米国の大統領だ」・・・。
「ホテル・ルワンダ」を観て、ポールの行為のすばらしさと内戦の虚しさと悲惨さ(とりわけ女性はレイプされたうえに虐殺されるという二重苦を背負わされる)、大国の(国民も含めた)無関心ぶりは伝わってくるが、それだけでは問題の真の解決はできない。
本作の中でも、北側の記者が「TVで実情を報道しても、怖いねと言うだけで、ほとんどの人はディナーを続ける」と言うが、どこに原因があり、何が問題点なのかを明らかにしない限り、本作への関心も一過性で終わってしまうだろう。
人間はなぜ暴力を止められないのか?
私たちの誰もが何らかの共同体に属し、言葉を駆使して生活している。共同体が成立するには、秩序を保つための法が必要である。言葉も法も完璧なものはないので、必ず他者への暴力を含むことになる。
しかし、言葉や法を全面的に破棄することは、さらなる暴力に繋がるため、私たちは「暴力の配分」のなかで、「最小限の暴力」を行使して、限りなく正義の方向へと進んでいくしかないのだ。
つまり、自分の存在には絶対に欠かせない「見えない他者」を、愛すると同時に断念する(やむを得ず暴力を振るい排除する)こと=両義性が必要なのである。
暴力の連鎖を防ぐためにはどうすればよいのか?
見えないものを見るのは、想像力である。全身のエネルギーを込めて、イメージの世界の中で他者との関係を構築すること。人間にとって最初の他者である 原初の母との融合・分離を復元するかのように・・・。
そうすると、他者があっての自分、自分のなかに必然的に他者が潜んでいることが分ってくる。自分も他者も渾然一体となり、区別できなくなる・・・。
想像力は心の浄化に繋がり、良心=正義を湧出させる。
21世紀は「イメージの時代」といわれる。なぜなら、想像力こそ自分と他者、国、部族、宗教、性などの二項対立の接点となって、人々により良く生きることを示すカギだからである。
主人公のポールも、妻の属するツチ族の人々の窮状を、想像力により自分のこととして捉えたから、多くの人を救うことができたのだ。そうでなければ、自分の家族だけで逃げたはずである。
メッセージ性を極力排した本作は、観客にさまざまなことを考えさせてくれる。私で言えば、二項対立の奥にあるもの(争いを引き起こすもの)は何か、より良く生きるためには何が必要かをじっくりと考えることができた。必見の理由はここにある。
(★5つで満点)