ブロークバック・マウンテン

ラブストーリーは好まないが、本作の質の高さに引き込まれた。同じように”差別(人種VS.同性愛)”をテーマにしてアカデミー賞の作品賞を争った、都会的で動的な「クラッシュ」とは対照的に、牧歌的な風景が醸しだす大らかさが、この長くて切ない物語を優しく包み込んでいる。


goo映画: 映画と旅行を愛する人々に向けた情報サイト。「個性的すぎる映画館」、国内外のロケ地めぐりルポ、海外映画祭と観光情報、映画をテーマにしたお店紹介など、旅行に出たくなるオリジナルコンテンツを配信中。


 カウボーイはアメリカにおける「男らしさ」の象徴といわれている。なかでも保守的な西部や南部では、男性たちは異常なほど「男らしさ」に執着し、ホモセクシャル(同性愛)を嫌う人が多いという。


 なぜ、同性愛嫌悪になるのか?
 カウボーイは男性だけの職業。本作の主人公であるイニスとジャックのように牧場を渡り歩き、その都度男性同士で仲間を組んで仕事をする。典型的なホモソーシャリティ(同性社会集団)だ。


 ホモソーシャルは、異性愛男性同士の友情によって支えられ、男性同士が同一化する関係である。このホモソーシャリティにとって、男性同士の連帯が同性愛関係とみられる原因となってしまうような”同性愛者”と、男性同士の絆に亀裂を入れかねない”女性”は排除されるのだ。
 ホモソーシャリティにおける女性の疎外については、「スタンドアップ」のレビューで述べた。


 また、このことから、男女の異性愛は、男性同士の結束を固めるために女性を利用するものであり、ホモソーシャルは、本来的に「隠れ同性愛」関係であるということになる。


 フロイトのエディプス構造(父〜母〜子の三角形)が、そうした関係を解明してくれる。
 男児は母への愛(近親姦タブー)を父からの去勢の脅し(去勢コンプレックス)によって諦めざるを得なくなるが、父と同一化して同性=男になることで、やがて母と同性の女を性的に愛するようになり、母への愛の喪失を克服するというものである。
しかし、男児が「男」と名付けられたとたん、エディプスの三角形から母(女)ははじき出され、後には息子の「父(男)への愛の物語 」が展開される。


 男児は、(公認された異性愛の)母への愛の断念から、必然的に(公認されない同性愛の)父への愛の断念へと移行する。最初のトラウマ(母への愛の喪失)を解消するはずの父との親密な関係が、同性愛嫌悪のトラウマ(父への愛の喪失)を生み出す構造となっている。

 つまり男性は、自分が参入した公的領域のなかで 母への愛から父への愛に、そして母への愛にという「愛の喪失の反復」を、その慣習行動(男同士の連帯を育む実践)を通じて遂行しなければならないのである。


 本作でも、イニスは父に対する去勢コンプレックスを背負い続け、ジャックの死も去勢(リンチ)の匂いがする。
 二人は去勢不安を解消するための父(男)への愛を、男(女を愛する身体)になることで解決した。ともに異性と結婚して子供をもうけるが、20年にわたって「隠れ同性愛」関係=愛の喪失の反復、を続けるのである。


 対幻想は、二人の関係性が閉ざされている場合に強くなる。最初の出会いと別れの際に 、ジャックの車のバックミラーにイニスの姿が映るのは、愛が幻想であることを意味する。


 ブロークバック・マウンテンは、閉ざされた二人の関係性を開放する幻想の空間である。そこは禁じられている火を焚き(激しい恋の火を燃やす )、童心に返って思う存分父(男)と愛を交わすことができる場所なのだ。
二人とも現実的に父親との確執があり、それを修復しようとして一層父なる存在を求めていたのだろう。


 ディナーで家父長が肉を取り分けるシーンが2回ある。ジャックは「ここは俺の家だ」と異議申し立てをして、義父からナイフを取り上げる 。イニスは妻の新しい夫が堂々とナイフを使うのを見守る。
 こうしたことから保守的な地方であるということがよく分かる。


 保守的な会員が多いので、ホモセクシャルをテーマにした作品は、アカデミー賞の作品賞を獲れないといわれている。本作は、遂にこの悪しき伝統を打ち破るかと思われたが、残念ながら叶わなかった。
 同性愛は、人間には必然の欲望であることを描いた秀作なのに・・・。
 イニスとジャックは、最初に結ばれた後、当惑し、「一時的な出来事」として、同性愛関係であることを否定する。しかし、逆説的だが、この当惑(同性愛パニック)こそ、自分の中の本来的な欲望に気付いた証拠なのだ。


 本作は、認知されない関係の哀しみを二重に体現している。

(★5つで満点)