グエムル 漢江の怪物

スリードに次ぐミスリードで、脱中心化を図る手法。大いに政治的メッセージを感じる秀作だが、フェミニズムの視点からも読み解くことができる。
本作の登場人物はすべて、母が不在だ。グエムル(怪物)は、不在の母=女性性のメタファーである。


グエムル 漢江の怪物


 フランスの抵抗詩人にして小説家ルイ・アラゴンは、彼の小説『パリの農夫』の中で、 「女は火の中に、強いものの中に、弱いものの中にいる、女は波の奥底にいる」と書き、暴力が取り憑いた、幻想的で怪物的な女性性を追求している。
 男性性の恐るべき側面(無法者の行動原理=暴力、犯罪、禁止、略奪などへの押さえがたい傾向 )も持ち合わせているような女性性の不可解さ・・・。 
 本作の怪物は、まさにそれである。


 冒頭、駐留米軍ホルムアルデヒドを漢江に流す。
 2年後に異変の兆候が現れる。
 6年後に巨大な怪物となって波の奥底から出現し、人間を襲う。


 廃棄処分された毒薬は、家父長制社会から排除された(不在の)母である。
 長年隠蔽されているうちに抑圧の感情が呪詛にまで熟成し、一気に噴出して逆襲行動に出たのだ。
 孤児の少年を助ける娘のヒョンソは母的な存在である。
 彼女は2つのシーンで、缶ビールを蹴り、シューッと液体を噴出させる。


 怪物の出現により、封印されていた社会問題が明るみに出る。これらは、もう一つの怪物でもある。
 駐留米軍による廃棄物の垂れ流し・女子中学生殺人事件・イエローエージェントの存在(黄色人種への生物化学兵器の実験)・ウイルス・ホストのねつ造など、基地設置にまつわるデメリットの数々。
 北朝鮮による拉致、ブッシュによるイラク侵攻、官僚主義、賄賂、拝金主義、メディアの取材合戦、(ネット上の)荒らし、TV漬け、有機野菜、カード地獄、家族の崩壊・・・。


 身をくねらせるヌルヌルの怪物グエムルは、1つの口で食事と排泄を行う。
 聖と俗、生と死、快楽と恐怖の場所が同じである。
 これは、出産と消滅(死すべき運命の人間を生み出す)を司る女性の性器なのだ。
 このべとべとしたおぞましいもの、しかし限りなく愛しいものでもあるという両面性を持った怪物は、母と子の未分化状態を保っている原初の母(すべての表象能力に先立って、生殺与奪の権力を握っている)として、嫌忌すべきものである。
 即ち母殺しをしなければ、(逆に自分が殺されてしまうので)一人立ちできないのだ。
 

 そこで、母が不在の登場人物たちは皆、突然現れた母グエムルと関わり、格闘し、力を合わせて殺そうとする(ヒョンソの父、叔父、叔母の3きょうだいは、人間的に未熟で、未分化状態)。
 父は怪物(妻)に殺されるが、家父長的存在を拒否されたのだ。
  母的な存在のヒョンソも怪物に呑み込まれるが、代わりに孤児の少年が助かるので、これも一種の母殺しである。 


 ヒョンソの叔父と叔母が母殺しに挑むが、とどめを刺すのは、いちばん未分化だったヒョンソの父カンドゥンだ。
 彼は、新しい家族を得て自立する。


 すべてを浄化する雪のラストシーンは、愚鈍だが無垢なカンドゥンの再生をイメージさせて感動的だ。
 
 さて、もう一つの怪物に立ち向かうのは誰なのか。
 映画は何も語らず、観客にその答えを委ねている。
 (★5つで満点)