フラガール
冒頭、斜めの構図が提示される。
少女が2人、将来への不安を語り、ボタ山から斜めに滑り降りる。
集会所の「一山一家」の額が傾き、炭坑が斜陽産業であることが分かる。
窓、戸、カメラのファインダーなどから、のぞき込むシーンが多用される。
本作は、場所=境界を巡る物語である。
フラダンスのレッスン場、フラダンス教師の家、集会所、列車などの窓を 通して、内側から外側が、外側から内側が透けて見える。
これらの窓は旧体質と新時代、田舎と都会 、親と子、女と男、公と私、 自己と他者などの境界である。
「境界とは何かがそこで止まる地点ではない。あらゆる境界とは、ギリシャ人たちも認識していたように、何かがそこから存在し始める地点の謂である」と、ドイツの思想家マルティン・ハイデガーは言う。
二項対立には排除と切断の論理しかなく、両側にあるアイデンティテイがそれぞれ固定され、収束してしまうため、発展のエネルギーにはなっていかない。
人は誰でも、誰かに認められたいと思っている。私は、一つの場所に閉じこめられた存在ではなく、どこか他の場所、何か他のもののためにも存在しているはずだ。この欲望が、人を向こう側へと連れて行く。
それには、境界という中間地点の空間が必要である。ここから向こう側を見つめ、承認することで、人は自分自身を「越えた」場所へと連れ出すのである。
境界を越えるには、「故郷(家庭))の喪失」という通過儀礼が条件となる。
フラ教師のまどかも、フラ練習生の紀美子も、家を飛び出したため、もう後には引けない。「故郷(家庭)を喪失した生の在り方」を 体現しなければならないのだ。
二人は、家庭と社会の境界が攪乱されて、公と私とがない交ぜになり、身近な世界から自分の社会的な役割を明らかにしていく。つまり、自己実現と炭坑の再生という二つの価値を追求していくことになる。
それは、上記の境界(旧体質と新時代、田舎と都会 、親と子、女と男、自己と他者など)を切り崩していくエネルギーになる。
・練習生たちがレッスン場の窓から、教師のすばらしいダンスシーンをのぞくことで、それまでうち解けられなかった双方の関係が変わっていく。
・支配人がカメラのファインダーからのぞくフラガールたちの晴れ姿は、彼女たちがプロ意識を自覚したことを表現している。
・借金の取り立て屋がのぞくまどかの部屋を、紀美子の兄がのぞく。このとき兄は、最初は胡散臭く思っていたまどかを 、守ってやろうと決心する。
・集会所の窓から見える、父の遺体と対面するために駆けつけた小百合と、練習生たち。旧体質の組合員たちとフラガールたちの和解を予感させるシーンだ。
・去っていく自分を追う教え子たちを、東京行きの列車の窓からのぞくまどか。次のシーンでは、ホームに降り立ち、こちら側のまどかと向こう側のフラガールたちの心が一つになる。まどかは、向こう側に戻ることに決める。
・反対していた 紀美子の母が、レッスン場の窓から娘のダンス姿をのぞき、感銘を受ける・・・。
こうして、まどかと紀美子に端を発した変革のチャンスは、優しい男たちの応援を得て開花し、炭坑はハワイアンセンターへとみごとに業態を転換していく。
泣いて笑って大いに楽しめたが、欲を言えばもうすこし「間」と「外し」が欲しかった。あまりにもオーソドックスで、先が読めてしまうのは残念だ。
とくに、二つの別れのシーンは、少し表現にひねりはあるものの、予想通りの展開である。
紀美子の兄が借金取りを負かすのも、紀美子の母がオープンの日に駆けつけるのも、予期したことだ。
また、落盤事故で死者が出た際も、プロだからと踊り続けるのは納得しがたい。炭坑の街だからこそ、痛みをみんなで分かち合うことが本筋ではないだろうか。
仮に踊り続けたとしても、フラガールたちがまどかをかばいきれなかったことに疑問が残る。まどかは「踊らなくてもいい」と言ったのだから、別れのシーンのためのこじつけとしか思えない。
紀美子の兄とまどかとの、恋の予感のように、すべてを明らかにしないで、観客に想像を委ねる演出があっても良かったのではないだろうか。
(★5つで満点)