西の魔女が死んだ

 魔女役のサチ・パーカーははまり役だ。品の良さと少ない言葉で、温かくて大らかな祖母を、これ以上ふさわしい俳優はいないだろうと思わせるほど巧みに演じている。


魔女とは、英語の「ウィッチ」の訳で、「妖術使い」のこと。ウィッチの語源は、古イギリス語の「賢い女」だといわれている。
 古くは、豊穣信仰のような、キリスト教以前の異教の実践者である巫女をさすという。いずれにしても、エコロジーの精神を持ち、大地の精霊の力を借りるのが特徴だ。「女占い師」として、ハーブなどの薬草を始め、産婆術にも長け、人間や家畜の病気を治したり、相談ごとにのったりする、幅広い知識の持ち主だった。
 しかし、中世以降、キリスト教の布教には邪魔な存在となり、異端と呪術者の区別は否定され、魔女狩りへと暴走する。


 魔女の魔法とは、女性ならみんな持っている性的魅力のことなので、女性であれば、誰でも魔女になれる要素を持っているといえる。
 魔女は、月の女神と有角神を信仰する。
 月の女神は、少女、大人の女性、老婆の3つの姿を持つ「グレートマザー」だ。 有角神は、月の女神の夫、息子、太陽の象徴、百獣の王である。
 つまり、魔女は、男尊女卑ではなく、男女対等の関係を提起する存在なのだ。

 
本作の魔女は、「妹が占い師をしており、予知&透視能力のある家系だ。しかし、そうした直感力に囚われると、魂のエネルギーを消耗して自滅する。そうするのではなく、一瞬一瞬を大切にし、その時、その時に決めて行けばばいい」と 孫のまいに語る。
 つまり、”賢い女性は、自分の能力を信じて、運命を切りひらいていくのだ”と教えているのである。


その原点は、魔女である祖母の死生観にある。
 彼女は、魂の行方(死後の世界)を案じており、この世を”魂の成長の場”として捉えている。
 そのためには、感謝の気持ちを持つ、他の人を尊重し信頼する、公平・平等な人間関係を築く、自然や動物、モノ、時間を大切にする・・・ 、といった、人として生きていくうえでの基本的な姿勢をまいに伝えようとしているのだ。


 この映画では、オールドファッションの礼賛とスローライフによるユートピアの現出で、優雅かつメルヘンチックなひとときを味わうことになるが、絶えずつきまとう”死”の影が、それだけに留まらない深みを創出している。
”いかに死ぬか”は、”いかに生きるか”と対になっているからだ。   

例えば、祖母は「予知能力や透視能力は必要ない。毎日のちょっとした変化が楽しい」と話した後、「一つだけ前もって分かっていることがある」と続けて、すぐに飼い鶏の死が提示される。
祖母と孫の会話の中にも、「人は死んだらどうなるの」「分からない。死んだことがないから」「パパは死んだら何もなくなるといった 」「死ぬと魂が体から離れて自由になり、長い旅を続けなければならない」「私が死んだら、まいに知らせるね」「ゲンジさんなんか死ねばいい」といった、死に関する話題が多出する。


極めつけは、予言通りの”祖母の死の知らせ”だ。
 窓ガラスの指文字、「ニシノマジョカラヒガシノマジョヘ、オバアチャンノタマシイダッシュツダイセイコウ」・・・。
 

 2年間も祖母宅へ行かなかったまいに、突然、舞い込んだ不幸な知らせ。
 死期を悟った祖母は、約束を守るために遺書として残したのだろうか?
 孤独のなかでの自死、とも考えられる程の完璧な死に支度に唖然とした。
 

子どもたちにも観てもらいたい佳作である。
 とはいえ、不満な点もいくつかある。
 祖母宅の隣人のゲンジや村の郵便配達夫親子の描き方に新鮮みがないこと(悪玉・善玉に分けている)。
 祖母とその他の村人を始めとする人間関係が希薄なこと(大量の手作りジャムの行方が気ににかかる)。
 まいが大雨に遭遇し、迷子になって救出されたことの必然性はあるのか?
 こんなに感化された祖母なのに、なぜ2年間も訪れなかったのか?
など・・。


清里のロケセット「西の魔女・おばあちゃんの家」が公開されていると聞く。5月下旬に近辺まで行った時には、気が付かなかったが、次回にはぜひ訪れてみたい。
(★5つで満点)