ファン・ジニ 映画版

 朝鮮王朝時代、蔑まれた妓生の身ながら、類まれな美貌と才気で逆境を乗り越え、時代の寵児となった実在の女性の生き方を、恋愛を主軸にして描いている。
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id331167/
 骨太な作品だが、表面的なストーリーには、やや無理がある。幼児の友情から初恋に発展し、生涯を賭けた大恋愛を、無理やり悲劇に仕立てた感じがするのだ。
 全体を理解するには、その奥にあるものを探らなければならないが、それだけの価値はあり、見応えがある。


 貴族階級の娘のチニは、幼馴染の奴婢ノミとの友情を割かれ、お互いに成長してから再会する。ノミは、チニへのいちずな思いから、すでに嫁ぎ先の決まっていた彼女の出自(主人が下女を手篭めにした結果、生れた娘を奥様が育てた)を婚家にバラし、結婚を阻止する。
育ての母から縁を切られたチニは、ノミの告白にもびくともせず、下女を辞めさせられた後、妓生(キーセン)となった産みの母と同じ道を歩むことを決意。「私を決して許してはいけない」というノミに、妓生の世話人になるように頼み、処女を捧げる。


ここに第一の無理がある。ノミが自分を愛していることを知り、自分もノミが忘れられないのなら、チニはノミにこんな頼みはしないはずだ。なぜなら、ノミとチニは身分が同じ賎民となったのだから、晴れて夫婦になれるではないか。
 彼との生活は貧しいから、自分が食べていくためには、貴族の妾になるか、下女になるか、妓生となって稼ぐしかないのだろうが、彼を愛していたのなら、妓生にはならないと思うのだが・・・。


 しかし、違った角度からみると、彼女は男性には頼らず、女性としての自立を図ったとも考えられる。貴族の娘として培った教養と天性の美貌を、存分に発揮できる道として、妓生という職業を選んだ瞬間、恋愛を犠牲にしたのである。愛だけでは生きていけないが、働いて稼げば生きていけると・・・。彼女なりのしたたかな計算である。

 案の定、ノミはチニに言い寄る男を見るに忍びなくて、彼の股間を傷つけて去ってしまう。


 5年後、チニは知性と教養で、高級官僚たちを手玉に取り、反骨精神にあふれる一流の妓生となっているが、義賊として活躍するノミの存在を知り、追っ手からの逃亡を助ける。
その時もチニは、「二度と私の前に現れないで、自由に生きて」と、本来の願望(「あなたがいて、私の人生があるようなもの」といったセリフ)とはかけ離れた提案をノミにする。 ノミも「私にはお嬢様だけです」とのセリフを発するが、彼女を連れて行こうとはしない。

ここに第二の無理がある。こんなに愛し合っているのに、一緒に逃げることを恐れているように見えるのは何故?チニはやっぱり計算高い
  ノミはチニの運命を逆転させた負い目があるから、「一緒に逃げてくれ 」とは言えないが、チニは何故、ノミと行動を共にしないのか。


「叶わない夢、遠ざかる二人・・・」といった美しいセリフとビジュアル。「この世で叶わないのなら、あの世で一緒になろう」といった予感を漂わせている。


ここにその答えがある。
 世話人としてのノミが去った後、チニは町の人々に崇められている聖人に会い、「生に執着するのは利己心。万物は繋がっている」という教えを受ける。
 つまり、此岸と彼岸は繋がっているのだから、何処にいても一緒、という訳だ。一時の情熱に負けてはいけない。それぞれが選んだ道を全うしてこそ、最後には共に平和な地(ユートピア)に辿り着くのだ、と。


チニの懸命な努力にも関わらず、行き違いにより、ノミは大変なことになる。それを知ったチニは失神し、4日後に覚醒する。


 二人が盃を交わすシーンの美しく悲しいことよ。
 ノミは弟分の奴婢ケトンの身代わりとなることを望んだのだ。ケトンに、本当の意味での「贈与(代償を求めない純粋なもの)」を実践したノミ。生への執着を絶ち、利己心を無にして、神の境地 に至ったのである。
チニも4日間、「深淵」をさ迷ったからこそ、一層、生への執着を持たなくなったのだろう。北朝鮮の冠雪した金剛山でのラストシーンは、彼女の未来に光が差しているような気配が感じられた。


「袋小路」「贈与」「反復」「深淵」といった、多難な人生の歩みそのものがきちんと表現されており、丁寧に時代考証がなされた豪華な美術とあいまって、重厚な印象を与えている。表面だけでは分らない作家の思いを、観客が思いめぐらせることができる秀作である。
(★5つで満点)